直隷決戦

旅順の占領は、日本軍の次の作戦をどこに指向するかの問題を提起します。伊藤首相は、清国が降伏しなければ、直隷決戦もやむをえないと決意しますが、しかし、他方では列強の動向から一、二カ月のうち終局に到ることを希望します。
実際、冬季であるうえ、兵站線の確保が容易でないので、大本営は、占領地でそのまま冬営することを命じます。
講和が切迫した問題になってきたとき、伊藤首相は12月4日の「威海衛を衝き、台湾を略すべき方略」という意見書を大営本部に提出します。
これによれば、伊藤は、第一に、直隷作戦に成功し、北京を攻略したならば、「清国は満廷震駭、暴民四方に起り、土崩瓦解ついに無政府となるべきは、即ち中外の声をもたらして唱道する所」である。それゆえ「列国はおのおのその商民を保護するうえにおいて、利害の関要もっとも痛切なるより、勢い合同干渉の策を施さざるをえざるの勢いに至らしむべきや必然」 であり、直隷作戦の実施は「みずから各国の干渉を招致する」ものである。第二に、冬の直隷作戦ほ「壮は壮なりと錐ども、談なんぞ容易ならん。天寒氷結にむかい潮海に在て運輸交通を便利にするは至難の業」である。伊藤首相は、講和に不利な直隷作戦にかえて、遼東半島における冬営持久と、陸軍の一部と艦隊による威海衛作戦および台湾作戦を提案します。ところが、山県司令官は、積極的な冬季作戦を主張し、直隷決戦を決行するためには、背後の安全を確保する必要があると理由をあげ、独断で海城攻略の作戦を下令します。伊藤首相は病気治療の名目で召還する勅命をもって、山県大将を帰国させ、監軍に任命されます。

帰国して監軍となり大本営の軍議に参画した山県は「この両城は数万の人命を犠牲に供し、百難を排斥し万難を冒破して陥落せしもの」とあります。
参謀本部『明治廿七八年日清戦史』に、第六旅団は十一月二十三日、鴨緑江を渡り安東県に駐屯し十二月一日にいたって、はじめて海城攻撃の命令をうける。三日に安東県を出発、寒風で凍てついた行 路を遠く西北に進み、十二日にはすでに清国兵の退却した析木城に入る。そして翌十三日ついに海城を攻撃、城内に突入する。このはじめての戦闘は、寒風の吹 きすさぶ雪のなかで戦われ足が凍って棒のごとく、その寒気のほどは敵弾が身辺をかすめるよりきびしい、と山形中尉は評している。その中尉は右耳と両足に全 治一か月の凍傷を負ったのである。さらに十九日、未曾有の缸瓦寨の激戦では厳冬の夜間とあって、雪中の原野に広く点在する負傷兵の収容は困難をきわめた。 必死なうめき声が収容を求めて遠く近くの寒空にこだまする光景は凄惨そのものであったという。創傷はただちに凍結し、重い凍傷に転化する。きびしい寒気が 犠牲を大きくしたのである。その後、海城の守備にあたるが有力な清軍の重包囲に陥り翌年二月二十七日にいたる七〇余日間、反復五度の執拗な攻撃に耐える 「海城難戦」を戦い清軍を撃退する。この間、寒威凛烈、往々凍死する者もあり凍傷で耳や鼻が水色に腫れあがり、手足の指先を切り落とす者あり、糧食は乏し く梅干の大小を争い粥の濃淡を論ずる状況にあったという。