海城難戦

>日露や太平洋戦争のに比べると影が薄い日清戦争ですが
最大の激戦地はどこになりますか?

第六旅団は十一月二十三日、鴨緑江を渡り安東県に駐屯し十二月一日にいたって、はじめて海城攻撃の命令をうける。三日に安東県を出発、寒風で凍てついた行 路を遠く西北に進み、十二日にはすでに清国兵の退却した析木城に入る。そして翌十三日ついに海城を攻撃、城内に突入する。このはじめての戦闘は、寒風の吹 きすさぶ雪のなかで戦われ足が凍って棒のごとく、その寒気のほどは敵弾が身辺をかすめるよりきびしい、と山形中尉は評している。その中尉は右耳と両足に全 治一か月の凍傷を負ったのである。さらに十九日、未曾有の缸瓦寨の激戦では厳冬の夜間とあって、雪中の原野に広く点在する負傷兵の収容は困難をきわめた。 必死なうめき声が収容を求めて遠く近くの寒空にこだまする光景は凄惨そのものであったという。創傷はただちに凍結し、重い凍傷に転化する。きびしい寒気が 犠牲を大きくしたのである。その後、海城の守備にあたるが有力な清軍の重包囲に陥り翌年二月二十七日にいたる七〇余日間、反復五度の執拗な攻撃に耐える 「海城難戦」を戦い清軍を撃退する。この間、寒威凛烈、往々凍死する者もあり凍傷で耳や鼻が水色に腫れあがり、手足の指先を切り落とす者あり、糧食は乏し く梅干の大小を争い粥の濃淡を論ずる状況にあったという。ようやく守勢から攻勢に転じて、三月五日牛荘を占領して、九日には日清戦争中の最後の激闘といわ れる田庄台の戦いを制することになった(参謀本部『明治廿七八年日清戦史』四、五、『歩兵第十九聯隊史』、『福井』明28・3・6、8、9、12〜15、資10 一―三〇六)

参謀本部『明治廿七八年日清戦史』に「七〇余日間、反復五度の執拗な攻撃に耐える 「海城難戦」を戦い清軍を撃退する」とあります。大本営は第一軍が攻勢終末点に達したと判断し、海域、栃木城を放棄して戦線を整理することを研究したが、 帰国して監軍となり大本営の軍議に参画した山県は「この両城は数万の人命を犠牲に供し、百難を排斥し万難を冒破して陥落せしもの」とありますので、この戦いも知れんね。