天皇

日本国民は袋のネズミのようなもので、外から入ってくることもむずかしいが、いざという場合に国外へ亡命することも容易ではないです。今でも離党では犯罪が少なく、戸締りをしない習慣が残っているのはそのためです。日本の外敵といえば、アイヌ、クマソくらいのもので、これらはほとんど日本民族の中にとけこんでしまっています。外界とのつながりがないからです。そして、この四つの島に、世界でも珍しい単一種民族が生ます。いや、日本民族といっても、もとは、海外からの雑多な種族によって構成されているのですが、民族意識が単一で純粋なのです。民族意識というものは、血とは大して関係がないです。このように日本は、単一民族意識の発生しやすい地理的条件にあって、その民族意識の頂点に天皇がおかれたのです。天皇崇拝の強度と純粋度は、民族意識の強度と純粋度に正比例します。
それが、“万世一系″という形で永続性を保持してきたのも、島国であるという地理的条件におうところが多い。”万世一系″それ自体は、実はナンセンスにひとしい。この世に生きとし生けるもの、すべて万世一系ならざるを得ないです。ただ日本の皇室が、相当長い期間権力の座にあるか、あるいはそれとつながりをもっていたということは、「万国無比」といえないまでも、確かに珍しい実例にはちがいない。

では、一般の人々は、どのような宗教感覚であったかですが、神社に行くと名前のわからない神様がお祀りされていることがあります。地主神とだけ書かれていることもあります。名前はあっても由来がよくわからない神様もあります。古すぎてよくわからない。ただそれだけだと思ってませんか、ところがもともと古代の神様には名前がついてない(知られていない)ことも多かったのです。
平安時代の僧侶で歌人だった西行法師は伊勢神宮を参拝したとき「何事のおはしますをばしらねども かたじけなさの涙こぼるる」と歌を詠みました。
ただし当時、僧侶は伊勢神宮の神域に入れなかったので五十鈴川の対岸から詠んだといわれます。
現代的に言えば「どんな神様かは知らないけれど、感動で涙がこぼれる」という意味の歌です。西行は出家前は佐藤義清という名前の武士でした。京都で天皇を守る役目をしていましたから伊勢神宮にお祀りされている神様をまったく知らないとは思えません。でもそこが世を捨てた西行法師らしい言葉でしょう西行法師ほど極端ではなくても日本人は似たようなものでした。つまり、神様の素性は気にしなかったのです。現代人が西行法師と違うのは伊勢神宮に行ったからといって涙を流さないことでしょう。
それはともかく、もしかすると古代のカミにも名前はあったかも知れません。でも古代の人々は「神様の名前を口にするのは失礼だ」と考えましたからよけいに名前が伝わりませんでした。

だから古代の人々は、名前はなくてもただ「カミ」として崇めていました。それで十分だったのです。古代から続く日本人の信仰と神様に名前がつくようになっていきさつを紹介します。

明治国家を建築した若者らが天皇を「玉」と呼び、「玉を抱く」「玉を奪ふ」などの隠語で盛んに用いられ、政治的術策を「芝居」と呼称したことなどは、彼らが伝統的規範意識から脱却していたことを表している。天皇の伝統的価値が若者らによって信仰せられたからではなく、天皇への信仰から解放された者だったから、「玉」を自由に操り、そこに国家建築が可能となったのです。明治臣民教育によって、近代技術文化の恩恵には存分に浴したいと心がけながら、意識一般、ことに政治意識の近代化だけは、自らに否定しつづける人間が帝国臣民の理想型ということになった。これは世界史上、近代にいたってはじめて生み出された品種であり、しかも日本の精神風土の継承、受精においてのみ可能な交配種のひとつである。

長い徳川の権威の下に天皇とは無縁であった民人に尊王攘夷、王政復古の中核になる天皇像をどのようにして民人の中に定着させ、ひろめていくかということに苦心した。
当時、民人と宗教は、日常生活の中に密着していたのを利用した。天皇は民人を統一理念に糾合していく為に利用できる恰好の手段でもあった。
古来から民人の身近な宗教であり、ささやかな現世利益にも結びついていた産土信仰や氏神信仰としての神社(神道)を利用して、従来の神社(神道)の姿から大きく変質させ、歪め、作り替えていった。
これを神社(神道)改革と呼ぶ。
明治政府が作りだしたものは、天皇信仰を民人の中に広め定着させる道具としての神社(神道)であり、これを国家神道という。
では、神社の改変はどのように行われたか。
まず、「社格制度」というものが作られた。それは天皇というものが、いかにすべての神々の頂点に立つ立派なものかを知らしめる目的のために作られた、天皇家の祖先神である天照大神を祀った伊勢神宮を頂点とするピラミット体系であり、官弊社、国弊社、府県郷村社、無格社からなっていた。
また祀られる神々自身も意図的に作り替えられた。つまり、当時の一般的な民間信仰にもとづく神仏習合の神々を「記紀神話」の神々に力づくで替えていった。
これを「宮中三殿信仰」の強要という。
宮中三殿とは、天皇の祖先神である天照大神を祀る賢所、歴代天皇・皇族の霊を祀る皇霊殿、その他の神々を祀る神殿で、造化三神天之御中主神・高尊産巣日神・神産巣日神)と出雲神社祭神の大国主神を最後の神殿に入り、三殿の序列はこの順序であった。
国家は神話の神々を利用し、天皇中心の新しい神を打ち出し、強要したわけである。
こうして神社そのものを人為的に改変し、それと並んで国家新道の傘下に新しい神社を次々と創建していった。
こうした創建神社こそは、天皇制下の国家神道の理念を代表するものであった。
私たちの知っている神社のほとんどは明治以降の創建神社であり、その祭神というのはほとんどが「人」である。つまり、天皇、皇族,功臣や戦没者などの「人」が神として祀られている。これは古来の伝統的な神概念とは異なるものであり、天皇への忠誠心に対する崇拝の思想を民人に広める目的で創られたものであったことは、言うまでもない。
1906年から10年にかけて神社の統合・合弁がおこなわれた。一村一社主義といわれるこの統合によって、無数の神社が統廃合され、民衆にとって最も身近な氏神産土神を祀る無格社を中心に、6,7万の神社が整理された。神社は神道による天皇制強化の拠点となっていく。「敬神愛国、天理人道、皇上奉載」などの言葉で民人の教化し、さらに、治安維持法により「国体の教義」を逸脱したものは、取り締まっていった。
太平洋戦争の開戦によって、国家神道による戦争遂行のための国民強化は、ますますファナティックな様相を呈した。1945年7月26日のポツダム宣言発表に際しても、政府指導者たには「国体の護符」の条件にこだわり続けたことが、ソ連の参戦と原爆投下を招く結果となったことは言うまでもない。
戦後、多くの国が天皇を戦犯として裁くべきだと主張したにもかかわらず、マッカーサーはその要望を退けたのは、天皇を政治的に利用するためです。日本政治の特徴は、事実上単独占領あったアメリカの国策と日本指導者たちの思惑が一致したことにより敗戦後も日本指導者たち内部の勢力交代があっただけで、天皇・皇族・官僚・政治家の全体系が従来のまま中央政権としての統一を保ち、アメリカ占領軍に従属しながら日本の政府として民人を指導しつづけたのである。戦前の天皇制は修正されたが、天皇を中心とした旧体制は、一時、崩壊しただけで、ほとんど崩壊せずに残ったのである。こうして天皇の戦争責任は免責されたと同時に旧指導者たちの思想は温存され、民人軽視の官僚主義がこの日本国家の中に生きづいているのである。
わが国の戦争を誘導し指導した人々の間に祖国を戦争に或は敗亡に導いたことについて、同胞をこの非況に陥れたことについて、これを同胞の前に詫びるというような気配はほとんど見受けられなかった。
国民に対して責任を負わねばならぬ者が誰もいない政体とは何であろうか。
占領軍進駐後の二ヶ月の報告書に「民主主義にいたっては、日本人民には未だかつてどのような形式にしろ、その経験がない」と記載れている。これは、国民の臣民的な政治意識の何もののせいでもあるまい。しかし、終戦にいたるまで、言論の弾圧や思想の統制の狂暴な嵐があまりにもながくつづいたために、わが国人の民主主絵義的傾向は文字どおり仮死の状態にまで立ちいたっていたことを思えば、しかたがないことである。天皇の「天」は、明らかに中国的な発想というよりも、シャーマニズムからきたものであろうと思う。日本で神道となって、天皇を神格化する上に大きな役割を果したからです。そいう日本人の純粋になりやすい民族意識を、統治の原理として時の権力者たちは、政治的に利用するのが常であるのです。

米国との戦争

米内光正海軍大臣山本五十六次官とともに、三国同盟阻止に力を注ぎます。山本は5年近くのアメリカ生活を体験して,アメリカの工業力を熟知していた。だから、負ける公算が強いから反対したわけで、山本は海軍の中でもっともよくアメリカを知る軍人でもあった。だが、海軍が「アメリカと戦えない」というようなこと言わなかったのです。海軍はアメリカを仮想敵国として、軍備拡張のためにずいぶん予算を使っていました。それでおりながら戦えないと言うならばその分を陸軍によこせ、ということにでもなれば、困るから一切言わない。負けるとか、戦えないということは一切言わないないのです。そいうことです。

陸海軍が米国との戦争に積極的に打って出たのは、ヒトラーのドイツが英国やソ連に勝利するということを期待していたからだ。ところが真珠湾攻撃の2日前にドイツはモスクワから敗走している。

 

国民たちが戦っている最中、天皇のお言葉

>戦争を支持したのは昭和天皇なのですか?


英米開戦において、いかに熟慮を重ねて、主体的に判断された。 東条首相はそのひんぴんたる内奏癖によって、天皇の意向をいちいち確かめながら、それを実現するように努力したのであって、天皇をつんぼさじきに置いて、勝手に戦争にふみ切り、天皇にいやいやながら裁可させたのではないです。


>またその場合、国民たちが戦っている最中、天皇のお言葉は?


続々ともたらされる勝報に、1941年12月25日には早くも、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と戦勝後のことを語り、南方作戦が一段落した1942年3月9日には、「余り戦果が早く挙がりすぎるよ」といって、喜びを隠さなかった。

1942年6月、日本海軍はミッドウェー海戦で主力空母4隻を失うなど大敗を喫し、戦争の主導権をアメリカ側に譲り渡してしまった。祝杯の準備までして戦果報告を待っていた海軍中央は、これに大きな衝撃を受けた。

この敗北は国民には伏せられたが、天皇には正確に伝えられた。天皇は6月7日に永野修身軍令部総長より報告を聞くや、「之により士気沮喪を来さゞる様に注意せよ、尚、今後の作戦消極退嬰とならざるようにせよ」といって、注意を与えた。残念な気持ちはあったものの、それほど動揺せず、むしろ大局的観点から士気を励ましたのである。

同年8月、今度は南太平洋のガダルカナル島で日米の攻防戦がはじまった。日本軍は、米軍の本格的な反攻を読みきれず、戦力を小出しにして、いたずらに消耗を重ねていった。
天皇も段々と不安になり、ガダルカナル島の戦況を尋ね、大丈夫か、どうなっているのか、確保できるのかと質問を繰り返した。これは、8月28日の「お言葉」である。

数多の戦闘を重ねたにもかかわらず、日本軍は結局ガダルカナル島の確保を果たせなかった。そして12月31日、ついに同島からの撤退を決するのやむなきに至った。天皇はこの決定を受けて、
「ただガ島攻略を止めただけでは承知し難い。何処かで攻勢に出なければならない」とこぼした。急速な戦局の悪化に焦った天皇は、もはや以前のようにどっしりと構えられなくなっていた。

1943年は、米軍は、新型空母や戦闘機を次々に配備して、戦力を大幅に強化した。日本軍はこれに抗しきれず、各地で後退を強いられた。4月には、山本五十六連合艦隊司令長官が南太平洋で戦死し、5月にはアリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅した。天皇は焦燥を隠せず、陸海軍に対して露骨に決戦を要求しはじめた。
「何んとかして『アメリカ』を叩きつけなければならない」(6月9日)
「何処かでガチッと叩きつける工面は無いのかね」(7月8日)
「何れの方面も良くない。米をピシャッとやることは出来ぬか?」(8月5日)
いつ決戦か。いつ叩くのか。いつ攻撃をやるのか。天皇の矢のような催促は延々と続いた。

1944年に入っても、「各方面悪い、今度来たら『ガン』と叩き度いものだね」(2月16日)といった有様だった。だが、米軍を叩きつける日はこなかった。日米の戦力差はもはや広がるばかりで、1944年7月には絶対国防圏の一角に設定されていたマリアナ諸島サイパン島まで陥落してしまった。

つぎの主戦場は、フィリピンだった。天皇はこの戦いについても多くの言葉を残したが、ここでは特攻に関するものを見てみたい。
よく知られるとおり、日本軍の組織的な特攻はこのフィリピン戦で開始された。まず10月26日、及川古志郎軍令部総長より、海軍の神風特別攻撃隊敷島隊などの戦果が報告された。天皇は、こう述べてその功績を讃えた。
「そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった」(読売新聞社編)
つぎに11月13日、梅津美治郎参謀総長より陸軍特別攻撃隊万朶隊の戦果が報告された。天皇はこれについても「お言葉」を与えた。
「体当りき[機]は大変良くやって立派なる戦果を収めた。命を国家に捧げて克くもやって呉れた」(『眞田穰一郎少将日記』)
こうして日本軍では、特攻が広く行なわれるようになった。もっとも、これで破滅的な戦局を挽回することなどできようはずもなかった。米軍は日本軍の抵抗を排して1945年3月、マニラを奪還した。

昭和天皇と特攻といえば、4月からの沖縄戦についても言及しておかなければならない。天皇は海軍の作戦に関して、「航空部隊だけの総攻撃か」(防衛庁防衛研修所戦史室編)と述べ、暗に海上部隊の参加を求めたといわれる。そしてこの発言が、戦艦大和海上特攻につながった。
「現地軍は何故攻撃に出ぬか、兵力足らざれば逆上陸もやってはどうか」(戦史叢書)制海権・制空権がないなかでの逆上陸は、特攻的といえなくもない。厳しく重い「お言葉」ではあった。

1945年7月米英中三国の連名でポツダム宣言が発表された。日本への降伏勧告だった。日本は、ソ連を通じての和平交渉に望みを託す傍ら、本土決戦も覚悟せざるをえなくなった。

天皇がここで心配したのは、三種の神器のことだった。7月31日に木戸幸一内大臣にこう語った。三種の神器は、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のことで、皇位の証とされる。このうち八咫鏡伊勢神宮に、草薙剣熱田神宮にあった。
そのため天皇は、敵に奪われないように自分の身近に移そうかと悩み、いざというときは「運命を共にする」とまで決心していたのである。

日本が8月14日の天皇の命令が行われるまで、戦争が終結しなかった理由は、戦争犯罪人の処罰も日本側で行うという、武装解除は日本側で自主的に行う、保障占領は行わないという条件を主張していたからです。一般的に「一撃を加えてより有利な条件を引き出す」ため「有利な条件」とは、このことです。この中で「戦争犯罪人の処罰も日本側で行う」ということが、天皇も最後の最後まで拘っていたからこそ、この日まで戦争の終結をみなかったのです。
「なお木戸に突っ込んで、一体陛下の思召はどうかと聞いたところ、従来は、全面的武装解除と責任者の処罰は絶対に譲れぬ、それをやるようなら最後迄戦うとの御言葉で、武装解除をやれば蘇連が出てくるとの御意見であった。
そこで陛下の御気持を緩和するのに永くかかった次第であるが、最近御気持ちが変った。二つの問題もやむを得ぬとのお気持になられた。のみならず今度は、逆に早いほうが良いではないかとの御考えにさえなられた。
早くといっても時機があるが、結局は御決断を願う時機が近い内にあると思う、との木戸の話である。(高木惣吉『高木海軍少佐覚え書』

「先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。[中略]万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ」(『木戸幸一日記』)
そうこうする間に8月になり、米軍が広島と長崎に原爆を投下し、また頼みの綱だったソ連が対日参戦するに至った。万策尽きた日本は、国体護持の条件が容れられたとみなし、同月14日、米英中ソの四国に対してポツダム宣言の受諾を通告した。

8月14日早朝のことを木戸は、次のように述べています。
「私の補佐官がパンフレットの一枚を拾ったと言って私のところに持って来た時、私は起こされたばかりで、朝食を済ましていなかった。このパンフレットは東京一帯にばらまかれ、その一部は宮城の中の庭にも落ちた。情勢は重大であった。軍人は降伏計画について何も知らなかった。彼等がそのパンフレットを見たら何が起こるか分らないと思った。この状況に驚いた私は宮城に急行し、天皇に拝謁を仰せつかった。8時30分頃であった。私は天皇に首相を謁見せられるよう奏請した……」
天皇は早速事態の急を知り、鈴木に伺候するよう命じた。首相は木戸が天皇に拝謁している間に、宮城に到着していた。木戸は鈴木に状況を説明し、最高戦争指導会議を開く準備があるかどうか尋ねた。
木戸は、「……首相は垂高戦争指導会議を開くことは不可能である。それは陸海軍の両方が降伏について考慮する時間をもっとくれと要求しているからであると答えた。ここで、私は首相に緊急処置を講じなければならないと言った。私は戦争を終結に導くため、閣僚と最高戦争指導会議の合同会議を開くことを提案した。その後、首相と私は天皇のところに行き、そのような会議を命令されるよう奏請した。首相と内大臣が一緒に天皇に拝謁を賜ったのは始めてであった。このようなことはこれまでになかった」と述べている。そして天皇は全閣僚、枢府議長および最高戦争指導会議の全員に午前10時半に参内するように命じた。それに先立ち10時20分天皇杉山元・畑俊六・永野修身の三元帥を召致し、「皇室の安泰は敵側に於て確約しあり…大丈夫なり」と述べ、回答受諾について「元帥も協力せよ」と命令した。天皇自身が召集する御前会議は午前11時50分頃から宮中の防空壕で開催され降伏が決定されます。
終戦に手間取るあいだにも国民の犠牲は増え続けていた。14日から15日早暁にかけてB29二五〇機が七都市を焼夷弾攻撃し、高崎、熊谷などが全焼して数千名が死傷します。
天皇や木戸らは、国民が真実を知ることにより「民心の悪化」を恐れ、アメリカではなく国民に対して「国体」の危機を感じとっていた。
有名な玉音放送が行なわれるのはその翌日のことである。

御前会議

御前会議と名づけられた会議は、大本営設置以後対米開戦まで、次のように開催された。

第1回 1938年1月11日「支那事変処理根本方針」(国民政府が和を求めてこないときは、これを対手にせず、新政権を樹立するという方針)を決定
第2回 1938年6月15日 武漢、広東作戦実施を決定(『戦史叢書・支那事変陸軍作戦(2)』で御前会議と書かれているが、内容からみると大本営御前会議であったかもしれない)
第3回 1938年11月30日「日支新関係調整方針」(東亜新秩序の建設のため日満支の提携と、華北揚子江下流域の特殊地帯化方針)の決定
第4回 1940年11月13日 汪政権との間の「日華基本条約」締結の決定
第5回 1941年7月2日「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」(北方問題の武力解決を準備するとともに、南方進出のための対米英戦を辞せず)の決定
第6回 1941年9月6日「帝国国策遂行要領(10月下旬を目途として対米英戦争準備を完成)の決定
第7回 1941年11月5日「帝国国策遂行要領」(対米交渉を甲乙両案で行うともに、12月初旬武力発動を決意)の決定
第8回 1941年12月1日「対米英蘭開戦の件」の決定

 

日米開戦の経緯を追ってみる-1941年

資料は、宮内省編「昭和天皇実録」の抜粋である。

 昭和15年11月5日
アメリカ合衆国大統領選挙で現職のフランクリン・ルーズベルトが勝利。アメリカではじめての3期目の大統領となる。
ルーズベルトの3選は民主党内からも多くの批判があった。また、合衆国には強い孤立主義感情が根深かった。それを意識して彼は再選されれば外国との戦争は無いとの約束を前面に立てて選挙戦を戦った。結局、ルーズベルト労働組合、大都市の政治マシーン、少数民族有権者、および伝統的に民主党が強いソリッドサウスの支持を確立することで、余裕のある勝利を得た。
当選後、公約に足を取られつつも、彼ははっきりと対日・対独の方針に舵を切っていった。
11月10日
紀元二千六百年記念行事。式典に臨御のため、陸軍式御軍装に大勲位副章以下勲章・記章全部を御佩用になり、午前10時48分、皇后とともに御出門。宮城二重橋前広場に行幸され、皇族、王公族を携えて式殿に出御される。総理大臣より式典開始の旨が奏上された後、皇后とともに御起立になり、参列者五万余名より最敬礼を受けられ、君が代の奉唱とお聞きになる。総理大臣の寿詞のあと、天皇侍従長が俸呈する勅語書を受け取られ、ご朗読になる。なお式典の様子はラジオにて実況放送され、式典は日本国内のみならず、新京・広東・上海・北京・南京各地においても執り行われた。
勅語は以下の通り。
茲ニ紀元二千六百年ニ膺リ百僚衆庶相会シ之レカ慶祝ノ典ヲ挙ケ以テ肇国ノ精神ヲ昂揚セントスルハ朕深ク焉レヲ嘉尚ス
今ヤ世局ノ激変ハ実ニ国運隆替ノ由リテ以テ判カルル所ナリ
爾臣民其レ克ク嚮ニ降タシシ宣諭ノ趣旨ヲ体シ我カ惟神ノ大道ヲ中外ニ顕揚シ以テ人類ノ福祉ト万邦ノ協和トニ寄与スルアランコトヲ期セヨ
(この間、仏印-ベトナム-への日本軍進駐の事態が進行する。昭和15年9月23日、北部仏印へ進駐。また昭和16年6月25日大本営政府連絡会議で南部仏印進駐決定。7月28日南部仏印へ進駐開始。いずれも、支那事変の対応に足を取られ、同時に英米の対日措置にとらわれて、、進行したものであった。

昭和16年1月、山本五十六によって「真珠灣奇襲作戦」の原案が陸軍大臣に明示された。この作戦案は軍部内での承認(8月-9月)、作戦日の決定(9月-10月)の曲折を経て、11月27日-12月1日国策として決定されることになる。その間、山本の主張と活動は本作戦案の推進力となった。
もう一つ重要なことは、この紀元二千六百年の年(昭和15年)、対英米戦争で欠かすことのできなかった「零式戦闘機」-設計者堀越二郎の指揮する三菱重工製- が、数度のテストの末7月24日やっと海軍で制式採用されたことである。これは、開戦( 16年12月)まで1年の余裕をあましており、実戦配備のための大量生産することができたことは奇遇としかいいようがない。)
昭和16年7月2日
御前会議。『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』の検討が議題。その概略は、
1)蒋介石政権(重慶政権)屈服促進のため更に南方諸域寄りの圧力を強化する(仏領インドシナからの米国等の支援路の遮断)
2)独ソ戦に対しては三国枢軸の精神を基調とするもしばらく之に介入することなく、密かに対ソ武力的準備を整え、自主的に対処す。
3)米国の参戦は既定方針に従い外交手段により極力之を防止すべきも、万一米国が参戦したる場合帝国は三国条約に基づき行動す。
枢密院議長原嘉道より、少なくとも我が国より進んでの対米戦争は避けるべきであるとの自説を展開する他、活発な議論はなし。午後、天皇が『要項」を御裁可になる。
7月15日
国際連盟脱退演説行って以来、三国同盟に前のめりに独断専行の行動が目立っていた松岡外相を更迭。この4月以降、対米交渉に関し近衛首相との間で意見対立が目立っていた。14日、大本営政府連絡会議の対米交渉了解案に反した訓令を駐米大使に打電したこと、またドイツ側には日本側の情報を内報する挙に出たことを問題視して、近衛首相は外相更迭と内閣総辞職を奏上。天皇より外相更迭のみの意向を述べられる。新外相は豊田貞次郎。
7月30日
午後3時より、御学問所にて、軍令部総長長野修身に謁を賜う。
長野より仏印進駐および対英米作戦に関する奏上を受けられる。その際、天皇は、博恭王(注)が軍令部総長在職時代に対英米戦争を回避するよう発言していたとして、現総長長野の意向に変化あるや否やにつき御下問になる。長野より、前総長と同様、出来る限り戦争を回避したきも、三国同盟がある以上日米国交調整は不可能であること、その結果として石油の供給源を喪失することになれば、石油の現貯蔵量は二年分のみにしてジリ貧に陥るため、むしろこの際うって出るほかない旨の奉答を受けられる。天皇は、日米戦争の場合の結果如何につき御下問になり、提出された書面に記載された勝利の説明を信じるも、日本海海戦の如き大勝利は困難なるべき旨を述べられる。軍令部総長より、大勝利は勿論、勝ち得るや否やも覚束なき旨の奉答をお聞きになる。
暫時の後、侍従武官長蓮沼蕃をお召になり、前軍令部総長の博恭王に比べ、現軍令部総長は好戦的にて困る、海軍の作戦は捨て鉢的である旨を漏らされ、また勝利は覚束ないとの軍令部総長の発言に付き、成算なき開戦に疑問を呈される。
(注)海軍軍令部の総長は、伏見宮 博恭王(在任期間1932-1941)、永野修身(在任期間1941-1944)へと交替した。

7月31日
午前、内大臣木戸幸一をお召になり、昨30日の軍令部総長の拝謁内容につき様々ご談話になる。天皇は、軍令部総長が米国との戦争に勝利の確信の見込みなしとしながら、国交調整の不調と石油の枯渇を理由としてこの際打って出る他ないと主張したことに関し、かくては捨て鉢の戦をするにほかならず、誠に危険であるとの感想を述べられる。内大臣より、軍令部総長の意見は単純に過ぎること、国際条約を尊重する米国の国情に鑑み、日本の三国同盟破棄が同国の信頼を深めることとなるやは疑問であること、日米国交調整は未だ幾段階の方法もあり、粘り強く建設的に熟慮する必要がある旨の言上を受けられる。
8月6日
御学問所にて近衛文麿首相に謁を賜う。日米首脳会談実現に向けた決意につき奏上を受ける。夕刻、参謀総長杉山元に謁を賜り、ソ連軍航空部隊の大巨襲来の場合における関東軍司令官の措置に関する命令につき上奏を受けられる。天皇はやむを得ないこととして承認されるも、陸軍の好戦的傾向に鑑み、謀略等をしないよう特にご注意になる。
8月7日
ご学問所において近衛文麿首相に謁を賜る。首相に対し、米国の対日全面石油禁輸に関す情報に鑑み、首相が速やかに米国大統領と会見するよう天皇自らが望む旨を仰せになる。
8月11日
内大臣木戸幸一をお召しになる。内大臣対し、過日首相が奏上した米国大統領との会談が成功すればともかく、米国が日本の申し出を単純率直に許容しない場合には、真に重大な決意をせざるを得ないとのお考えを示される。また、従来の御前会議は如何にも形式的につき、今回は十分納得できるまで質問をしてみたいこと、ついては会議には事務方の者を加えず、首相・外相・蔵相・陸相海相・企画院総裁(注)・参謀総長軍令部総長に三元帥を加えた構成することを希望される。
(注)1937年支那事変勃発後、戦時下統制経済計画ならびに戦いのロジスティクスを担うものとして企画された。企画院に結集した人物は、近衛文麿のブレーン組織「昭和研究会」の中心メンバーである朝日新聞社論説委員笠信太郎佐々弘雄や記者の尾崎秀実などと、稲葉秀三や勝間田清一らの革新官僚ソ連スパイ尾崎秀実をはじめとする転向左翼ら所謂「国体の衣を着けたる共産主義者」であった。彼らはマルクス主義に依拠して戦争を利用する上からの国内革新政策の理念的裏付けを行い、国家総動員法の発動を推進した。左翼思想の持ち主が多いため、事件を数度起こしている。


8月22日
午後2時外務大臣豊田貞次郎より、我が国より申し入れの日米首脳会談に対する米国政府の長文回答につき奏上を受けられる。引き続き、近衛文麿首相をお召になり、また夕刻、内大臣木戸幸一をお召しになる。
8月27日
午後3時、御学問所にて近衛文麿首相に謁を賜い、昨26日発電の対米回答(近衛メッセージ)につき奏上を受ける。さる17日、米国大統領は日本の南部仏印への武力進出に警告を発したが、首脳会談には前向きな姿勢を示していた。これを受けて、首相の回答には、南部仏印進駐が我が国の自衛やむを得ない措置にして、支那事変の解決または公正な極東平和の確立後に同地より撤兵する用意があること、さらに日ソ中立条約の遵守、及び隣接諸国への武力行使の意向なきことが表明される。よって、太平洋地域における平和維持のため両国首脳の直接会談に米国の賛同を願う旨が記されていた。
9月5日
午後4時、内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜う。首相は、本日閣議決定の「帝国国策遂行要領」につき奏上し、翌6日にこれを議題に御前会議を開催することを奉請する。『要領』の骨子は、次のようなものであった。
1)対米戦争準備---帝国は自存自衛を全うするため、対米、(英・蘭)戦争を辞せざる決意のもと概ね10月下旬をめどとし戦争準備を完整す。
2)対米外交努力---帝国は並行して米、英に対し外構の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む。
3)開戦期日---外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我が要求を貫徹し得る目途なき場合に於いては直ちに対米(英・蘭)開戦を決意す。
天皇は、1)と2)の何方が主でどちらが副かを首相に問いただしたが納得せず、陸海両統帥部長を呼び寄せ説明を求められる。
午後6時、御学問所に於いて再び首相、ならびに急遽参内の参謀総長杉山元軍令部総長長野修身に謁を賜る。冒頭、天皇は『要項』は外交を主とし戦争準備を副とすべきことを要求され、第一項と第二項を入れ替えるべきことを要求される。参謀総長杉山と天皇の議論が繰り広げられるが、最後に強き言葉を持って参謀総長を御叱責になる。
参謀総長が恐縮する中、長野軍令部総長は発言を願い出で、次のごとく述べる。現在の国情は日々国力を消耗し、憂慮すべき状態に進みつつ有り、現状を放置すれば自滅の道を辿るに等しいため、ここに乾坤一擲の方策を講じ、死中に活を求める手段にでなければならず、本『要項』はその趣旨により立案され、成功の算多きことを言上する。天皇は、無謀なる師を起こすことあれば、皇祖皇宗に対して誠に相済まない旨を述べられ、強い御口調にて勝算の見込みをお尋ねになる。長野軍令部部長は、勝算はあること、短期の平和後に国難が再来しては国民は失望落胆するため、長期の平和を求めなければならない旨を奉答する。
9月6日
御前会議。
午前10時、東一ノ間にて、「帝国国策遂行要領」を緊急議題に会議開催される。冒頭首相が開会を宣し、本日の議題に沿って、首相・軍令部総長参謀総長・外相・企画院総裁より順次説明あり。
引き続き、枢密院議長・原嘉道が、戦争準備と外交交渉の軽重関係について、天皇の意向に沿った発言を行う。それに対し、海相参謀総長より考えを同じにするとの返答があった。最後に、枢密院議長は、日米国交調整に一部反対の態度をとる者があり、反対者による直接行動のごときは憂慮に耐えないため、朝議の決定が断行できる勇断徹底的な処置をとられたしと要請する。これに対して内相より、甚だ遺憾であり、団体・個人の調査をなし、いざという時には必要な措置を取る旨の説明有り。以上を持って「帝国国策遂行要項」は可決される。
会議がまさに終了せんとする時、天皇より御発言有り。天皇は、事重大に付き、両統帥部長に質問すると述べられ、先刻枢密院議長が懇々と述べたことに対して両統帥部長は一言も答弁なかりしが如何に、極めて重大な事項にもかかわらず、統帥部より意見の表示がないことを遺憾に思うと仰せられる。更に天皇は、毎日拝唱されている明治天皇の御製
「よもの海みなはらからと思う世に
など波風のたちさわぐらむ」
が記された紙片を懐中より取り出し、これを読み上げられ、両統帥部長の意向を質される。満座は暫時沈黙の後、軍令部総長参謀総長の順で枢密院議長の意見と同じ旨を述べる。之にて閉会
10月16日
近衛文麿内閣の総辞職。
政変の概略: 近衛は、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領との直接会談を8月初旬より天皇の要請のもと企図する。会談で日米間の合意を先に形成し、その会談の場から直接天皇の裁可を求め、陸海軍の頭越しに解決しようという計画を立てた。しかしアメリカ側は会談自体には同意したものの、会談はあくまで最終段階と位置付け、先に事務方の交渉で実質上の合意形成をするべきであると10月2日に通告してきたため、近衛の目論見は頓挫した。つまり「国策遂行要領」が開戦決意の条件とする「10月上旬において交渉の目途が立っていない」状況となった。
それでも外務省が新たな対米譲歩案を作成し、それを元に10月12日に近衛と豊田外相が東條陸相を説得するが、結局不調に終わる。10月14日の閣議において東條はその件を暴露した上で「感情的になるから以後首相とは会わない」と宣言する。 同日、ゾルゲ事件の捜査が進展し、近衛の側近である尾崎秀実が逮捕され、ゾルゲ事件に近衛自身までもが関与しているのではないかとの観測すら窺われるに至って近衛の退陣は不可避となった。16日に近衛は総辞職し、第3次近衛内閣は約3か月で終わった。(wikipedia)
10月17日
重臣会議。
後続内閣首班の推薦のため重臣会議が開催される。いくつかの推薦が提案されたがいずれも反対された。その中で内大臣木戸幸一陸相東条英機を首相とし、陸相兼任とすることを主張、強いて異論はでなかった。
内大臣は速やかに東条の推薦を奏上し、天皇は東条を召すよう御沙汰になる。陸軍大臣東条英機に謁を賜い、後継内閣の組閣を命じられる。
10月18日
午後2時、御学問所にて東条英機に謁を賜い、新たな閣員名簿の献呈を受けられる。3時より鳳凰の間において新閣僚の親任式を行う。新たな閣僚には、軍務関係の変更はほぼ無いが、政務関係はかなりの変更があった。特に、特命全権大使東郷茂徳外務大臣兼拓務大臣に、岸信介を商工大臣に任じた。
5時4分、御座所に内大臣をお召になり、同33分まで謁を賜う。尚、天皇内大臣に命を下さり、内大臣は退下した陸海両相に対し、以下の通り伝達する。
「只今、陛下より陸海軍協力云々の御言葉がありましたことと拝察いたしますが、尚、国策の大本を決定せられますに就いては、9月6日の御前会議の決定にとらはるる処なく、内外の情勢を更に広く深く検討し、慎重なる考究を加ふることを要す、との思し召しであります。命によりその旨申上げ置きます。」
10月20日
午前10時43分、内大臣木戸幸一をお召になり、今回の政変に際しての内大臣の尽力を労われる。その際、内大臣より、不用意な戦争突入を回避する唯一の打開策と信じて東条を推挙した旨をお聞きになり、いわゆる虎穴に入らずんば、虎児を得ざる旨のご感想を述べられる。
11月2日
御学問所において総理大臣東条英機参謀総長杉山元軍令部総長長野修身に謁を賜う。首相より、昨1日午前9時より本日午前1時30分におよぶ「大本営政府連絡会議」の件に付き、つまり国策再検討の詳細な経過と結論に付き、奏上を受けられる。同会議に於いては、
1−戦争を極力避け、臥薪嘗胆す。
2−開戦を直ちに決意し、政戦諸施策をこの方針に集中する。
3−開戦決意の基に作戦準備を完整するとともに外交施策を続行する。
この三案の検討の結果、最後まで外交交渉の妥結に勤めるとともに、作戦的要請から12月初頭の戦機を失わないよう注意することに衆議が一致したため、「帝国国策遂行要綱」を再決定し、併せて対米交渉要領を決定した、と報告。
天皇は首相に対し、日米交渉により局面を打開できなければ、日本は已むを得ず対米英開戦を決意しなければならずやと漏らされ、また事態がそのとおりであれば、開戦準備の施策は已むを得ざるべきも、極力日米交渉の打開に努力するよう御要望になる。
11月4日
午後2時、陸海軍合同の軍事参議会の開催に御臨席になられる。議題は「帝国国策遂行要領、中国防用兵に関する件」にして、軍関連皇族ならびに陸海軍代表者が集まる。席上、まず長野軍令部総長より「開戦を決意した」経緯を述べ、作戦の見通しにつき説明した。
11月5日
御前会議。
 議題は、11月1−2日大本営連絡会議の討議を経て4日閣議決定された「帝国国策遂行要領」。会議では参加者の説明と質疑応答が行われ、「要綱」を承認。
続いて、枢密院議長・原嘉道の発言があった。彼は、米国との戦争に危惧を述べ、日本が参戦した場合、白色人種国家である独英米間の和平により、黄色人種国家である日本が孤立しないよう政府の善処を切望する旨を表明する。これに対して東条英機首相は、直接答えず、長期戦突入に伴って予想される困難な事態を憂慮して現状を放置すれば、石油の枯渇・国防の危機等を招来し、延いては三等国の地位に陥る懸念があること、人種戦争の様相を呈しない施策を考慮していること等を表明した
米国政府の動き
11月25日
ルーズベルト大統領はホワイトハウスに、ハル国務長官、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル参謀総長、スターク海軍作戦部長を招集して、会議が行われた。席上、”The question was how we should maneuver them into the positon of firing the first shot without allowing too much danger to ourselves”「アメリカに過大の危険を招かぬように配慮しつつ、日本のほうから攻撃をせざるをえなように仕向ける」ことで合意した。
11月26日
アメリカは、それまで日米交渉によって積み上げてきた、合意の一切を否定する「ハル・ノート」を日本に突き付けた。(加瀬英明:2015)
11月27日
大本営政府連絡会議(軍部・政府は開戦を決定する)

この日午前、「大本営政府連絡会議」が開催され、外相より日米交渉の成立が困難である旨の報告がなされた。日本側より去る20日提示の乙案に対する米国の対案(ハル・ノート)の骨子が、ワシントン駐在の陸海各武官よりの電報にてもたらされる。
ついで、午後2時再開の会議において各々情報を持ち寄って審議した結果、米国の対案(ハル・ノート)は最後通牒とみなすべく、もはや日米交渉の打開に望みはないため、11月5日の御前会議の決定に基づく行動を要するが、改めて12月1日に御前会議を開催の上、最終的に決定することを申し合わせる。ただし天皇が日米交渉を深く御ちん念になり、重鎮からの意見聴取を希望されていることにも鑑み、明後29日に重鎮を宮中に集め、首相より説明をなし、その後に午餐を賜ること、御前会議への重鎮の出席は不可なること、を申し合わせる。
また当連絡会議は、宣戦に関する事務手続き、国論指導要綱を審議の上決定し,予め草案を準備中の「開戦の詔書」案についてはさらに研究し、意見があれば内閣書記官長が取り纏めて修正するとした。
11月28日
午前11時30分から零時30分まで、御学問所において外務大臣東郷茂徳から説明を受けられる。野村・来栖両大使は、ワシントンにおいて現地時間26日夕刻ハル国務長官よりオーラル・ステートメントおよび米国対案(ハル・ノート)が手交されたこと。米国の対案は、日本側が提案した甲案・乙案いずれも拒否するものにして、米国が従来繰り返し主張してきた4原則の承認を求めるとともに、両国政府のとるべき措置として10項目を列挙していた。
11月29日
重臣会議。
午前9時30分より東一ノ間において「重臣会議」が開催される。会議は議長を置かず、また議決も行わない懇談形式とされた。参加者は、各軍大将、各国務大臣、枢密院議長、宮内大臣内大臣侍従長などであった。
まず東条英機首相より開戦の已むなき所以につき、また東郷茂徳外相より日米交渉の顛末につきそれぞれ説明する。ついで重臣より質問が相次ぐ。重臣のうち対米開戦やむなしとするものは3分の1、残りの岡田啓介若槻礼次郎のともに元総理大臣を中心とする3分の2は、積極開戦はドカ貧に陥るものにして、現状維持のジリ貧のうちに何とか策をめぐらすことを適当とし、対米忍苦・現状維持を主張する。
午後1時休憩、一同は御陪食に参列する。
御食後、天皇は御学問所に移られ,各重臣より順次意見を聴取される。発言者は、若槻礼次郎岡田啓介平沼騏一郎、米内光政、広田弘毅林銑十郎、阿部信行などであった。中でも、若槻礼次郎の次の発言は注目に値する。自存自衛のためならば敗戦を予見し得ても立つ必要あるも、大東亜共栄圏の確立等の理想に拘泥した国力の使用は非常に危険につき,考慮が必要な旨を進言した。
午後3時5分、天皇は入御される。なお、重鎮と閣僚は再び東一ノ間に移り、質疑応答を再開し、会議は4時頃終了する。
11月30日
午前10時5分より、御座所において宣仁親王高松宮今上天皇の叔父)と御対面になる。その際、親王は、海軍は可能ならば日米戦争の回避を希望している旨をお伝えになる。また、親王より、統帥部では戦争の結果は無勝または辛勝と予想している旨の言上あり。これに対して天皇は、敗戦の恐れありとの認識を示される。親王より、敗戦の恐れある戦争の取りやめにつき提案を受けられるも、これに対し天皇のお答えなし。
午後4時より、東条英機首相に謁を賜い、諸報告を受けられる。その際、海軍の戦争に対する自信の有無につき御下問になる。東条首相は、事ここに至りては自存自衛上開戦は已むをえないこと、統帥部においては戦勝に相当の確信あると承知するも、海軍作戦が基礎となるため、少しでも御懸念あれば軍令部総長海軍大臣をお召の上十分ご確認を願いたき旨を奉答する。
かくして6時13分、海軍大臣島田繁太郎・軍令部総長長野修身をお召になる。軍令部総長に対し、長期戦が予想されるも、予定どおり開戦するや否やにつきお尋ねになり、大命が降れば計画通り進撃すべきこと、明日詳細を奏上すべきも、航空隊は明日ハワイ西方の千八百里に達するとの奉答を受けられる。次いで海相に対し、開戦の準備状況及びドイツの単独和平の場合における措置方につき御下問になる。海相より、人員・物資共にい十分準備を整え、大命一下に出動できること、また元来ドイツは信頼できず、万一同国が手を引くとしても我が国にとって支障はないと考える旨の奉答を受ける。
両名の退下の後、内大臣をお召になり、海相軍令部総長に下問した結果、両名ともに相当の確信をもって奉答したため、予定通り進めるよう東条首相へ伝達すべき旨を御下命になる。
12月1日
御前会議
午後2時東一ノ間にて御前会議開催。出席者は、すべての国務大臣、統帥部側より、参謀部総長・次長、軍令部総長・次長、ほか枢密院議長、内閣書記官長、陸軍省軍務局長、海軍省軍務局長、総員19名が出席する。
長期戦を覚悟で開戦するも、今後戦争の早期終結に十分努力すべきことの首相表明がある。
午後3時45分会議終了。
午後4時5分、内閣より上層の御前会議決定に関する書類を御裁可になる。
(軍の開戦準備の動きは着実に進んでいた。海軍空母機動部隊は南雲忠一中将を指揮官として11月22日に、択捉島の単冠湾に集結。11月26日(軍部・政府が開戦を決定する「大本営政府連絡会議」の前日)、南雲は、出港直前、空母赤城に搭乗員達を集合させ、アメリカ太平洋艦隊を攻撃することを部下に初めて告げ、南雲機動部隊はハワイへ向けて単冠湾を出港した。
12月1日御前会議で真珠湾攻撃が決定されると、翌2日17時30分、大本営より空母機動部隊に「ニイタカヤマノボレ1208」の電文が発信された。その時、機動部隊は、高緯度コースを通って、すでに日付変更線を越えた地点を航行していた。攻撃司令を受けると、一旦停止し、後ハワイに向けて南進する。掲載した地図資料を参照)
12月2日
午後2時、参謀総長軍令部総長に謁を賜う。軍令部総長より武力発動時機を12月8日と予定する旨の上奏を受けられる。
12月3日
午前10時45分、今般出征の連合艦隊司令長官山本五十六に謁を賜い、出征の勅語を下される。
午後4時10分、侍従武官城英一郎より、連合艦隊司令長官山本五十六の奉答文を受けられる。奉答文は以下の通り。
開戦ニ先チ、優渥ナル勅語ヲ賜リ、恐罹感ノ至リニ御座イマス。謹ンデ大命ヲ奉ジ、連合艦隊将兵一同、粉骨砕身、誓ッテ出師ノ目的ヲ貫徹シ、以テ聖旨ニ奉ズルノ覚悟デ御御座イマス。
天皇は、奉答文を一度御朗読の後、三度ほど繰り返し熟読される。
12月8日
午前2時50分、天皇は御起床になる。海軍軍装を召され、3時御学問所において外相に謁を賜う。アメリカ大統領の天皇に対する親電の件であった。
午前3時25分(ホノルル時間-7日午前7時55分)より、わが海軍部隊はオアフ島米軍施設・艦隊への攻撃を開始し、四時30分ごろ、海軍省軍務局長より攻撃成功の報が電話にて外相にもとらされる。
午前6時、大本営陸海軍部より、帝国陸海軍が本日未明に西太平洋において米英軍と戦闘状態にはった旨の発表あり。
午前10時50分、準備された「宣戦の詔書」が渙発される。同時に臨時帝国議会の招集が発っせられる。

 

山本五十六司令長官の責任は、比較を絶して巨大である

>第二次世界大戦について
日本が大国アメリカと戦うことになった理由。また、後戻りできなくなってしまったポイントはどこですか?

真珠湾攻撃でしょう。
ルーズベルト真珠湾攻撃の直後、アメリカ国民に対して、日本に対する報復を宣言した。このときの演説で、建国以来初めて、アメリカ国民は団結して一つになった。
アメリカはもともと、自己主張の強いヨーロッパ人がやってきてつくった国である。ヨーロッパ人が指摘することだが、アメリカ人はヨーロッパ人よりもさらに自己主張が強い。何事についても意見の食い違いが激しく、自分の主張を曲げない。独立戦争のとき、隣り合って住んでいる一方が独立派、もう一方がイギリスの国王派に分かれて小銃を撃ち合ったという記録がある。メキシコとの戦争、南北戦争第一次世界大戦への参戦、すべての戦争で国民が対立し合った。だが第二次世界大戦への参戦については、アメリカ国民のほとんどが一致して参戦に賛成した。

11月5日、帝国陸海軍は天皇の裁可を受けて対米戦の作戦命令を発令し、ハワイ真珠湾を奇襲する機動部隊が択捉島単冠湾の基地に集結を開始する。この時以来、作戦準備を推進する上での時間稼ぎとしての意味しか持たなくなっていた。真珠湾奇襲の機動部隊は11月26日の朝、則ちハル・ノート受諾の2日前に択捉島を出発している。


ハルノートに接した日本は、1941(昭和16)年12月1日、開戦日を決定する御前会議を設けた。開会の直前に、東条英機首相は杉山元(はじめ)参謀総長から「どうも海軍はハワイをやるらしい」と耳打ちされた。「何!ハワイ?…話が違うではないか!」と、東条首相は激怒している。と言うのは同年11月15日、開戦は避けられないと追い詰められた日本は「大本営政府連絡会議」において戦略を策定していた。それは「対英米蘭蒋(介石)戦争終末促進に関する腹案」(杉山メモ)に明らかである。
  
第1段階 南方作戦諸資源を確保し、長期不敗、戦略自給の態勢を確保する。
第2段階 西亜作戦インド洋を制圧し独伊と連絡を確保する。インド洋制圧により英米の補給を断つ。これにより英を脱落させる。インド独立のため2個師団を派遣する。(インパール作戦?)
第3段階 インド独立により、対蒋援助物資を断つ。蒋脱落により中国大陸の百万の兵力が予備兵力となる。日本近海の諸島の要塞化と航空化を進める。
第4段階 対米講和に備え国力を充実させる。以上の目途を昭和17年の秋とする。

この「腹案」の中にハワイ作戦などは影も形も存在しない。だから「話が違う」のである。開戦前夜、首相は暗夜の公邸で慟哭している。翌朝、首相は真珠湾攻撃の成功をラジオのニュースで知る。ミッドウェーの敗戦も首相は知らない。一年ほど後に仄聞(そくぶん)するのである。サイパンの防衛は当然に遅れた。真珠湾攻撃もミッドウェー作戦も山本五十六司令長官の「私戦」に過ぎない。山本権兵衛海軍大臣山本五十六司令長官の責任は、比較を絶して巨大である。

 

参考

十一月十五日、連絡会議は「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」を決定した。 ここに並ぶ字句には、不確かな世界に逃げこんだ指導者の曖昧な姿勢が露骨にあらわれていた。 二つの方針と七つの要領があり、方針には、極東の米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立するとともに、 蒋介石政権の屈服を促進し、ドイツ、イタリアと提携してイギリスの屈服をはかる、 そのうえでアメリカの継戦意思を喪失せしむるとあった。 この方針を補完するために、七つの要領が書き加えられていた。 そこにはイギリスの軍事力を過小評価し、ドイツに全幅の信頼を置き、アメリカ国民の抗戦意欲を軽視し、 中国の抗日運動は政戦略の手段をもって屈服を促すという、根拠のない字句の羅列があった。 願望と期待だけが現実の政策の根拠となっていたのである。
保阪正康東條英機天皇の時代(上)」  P.308

海軍国防政策委員会

十二月十二日、及川海相の認可のもと、海軍中央に「海軍国防政策委員会」ができました。
後に井上成美中将が「百害あって一利もなかった」と断じたほどひどいものですが、これには四つの委員会があり、第一委員会は政策、第二委員会が軍備、第三委員会が国民指導、第四委員会が情報を担当します。

うち第一委員会が国防政策や戦争指導の方針を分担するのですが、海軍省から高田利種軍務一課長、石川信吾同二課長、軍令部から富岡定俊一課長、大野竹二戦争指導部員の四大佐が委員となり、幹事役に藤井茂、柴勝男、小野田捨次郎の三中佐が配属されます。
みんな、対米強硬派です。

うちの一人、高田利種大佐がのちに語っています。
「この委員会が発足したのち、海軍の政策は、ほとんどこの委員会によって動いたとみてよい。
海軍省内でも、重要な書類が回ってくると、上司から、この書類は第一委員会をパスしたものかどうかを聞かれ、パスしたものはよろしいと捺印するといったぐあいに、相当重要視されていた」

「相当重要視」どころではありません。
つまりこの委員会が、南方への進出などこれ以後の海軍国防政策のすべてを牛耳(ぎゅうじ)ったのです。

こうして十二月終わり頃、海軍中央部は、岡、高田、石川、富岡を中心に、南進論の先駆者といえる中原義正少将を人事局長にすえ、彼らが相談して、情報を担当する軍令部第三部長に前田稔少将、戦争指導部員に大野竹二大佐、軍令部第一課に神重徳中佐、山本祐二中佐、軍務局第二課に柴勝男中佐、藤井茂中佐、木阪義胤(きさかよしたね)中佐、同じく第一課に小野田捨次郎中佐ら、対米強硬派を配置しました。
これはみな薩摩か長州出身の気心が知れた連中で、しかもヒトラー大好きのドイツ賛美者でした。

石川大佐は言ったといいます。
ナチスはほんのひと握りの同志の結束で発足したんだ。
われわれだって志を同じくし、団結しさえすれば、天下何事かならざらんや」

すると藤井中佐は、昂然(こうぜん)としてこう言うのを常としました。
「金と人(予算と人事)をもっておれば、このさき何でもできる。
予算をにぎる軍務局が方針を決めて押し込めば、人事局がやってくれる。
自分がこうしょうとするとき、政策に適した同志を必要なポストにつけられる」

また、かって井上成美中将に「三国同盟の元凶だ」と叱責(しっせき)された柴中佐は言いました。
「理性や理屈じゃないよ。
ことを決するのは力だよ、力だけが世界を動かす」

というわけで、昭和十五年暮、海軍中央は対米強硬路線でぐんぐん走り出してゆきます。

上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」

太平洋戦争関連の昭和天皇発言

続々ともたらされる勝報に、不安に苛まれていた天皇も気が大きくなっていった。1941年12月25日には早くも、
「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」(「小倉庫次侍従日記」)
と戦勝後のことを語り、南方作戦が一段落した1942年3月9日には、
「余り戦果が早く挙がりすぎるよ」(『木戸幸一日記』)
といって、喜びを隠さなかった。

1942年6月、日本海軍はミッドウェー海戦で主力空母4隻を失うなど大敗を喫し、戦争の主導権をアメリカ側に譲り渡してしまった。祝杯の準備までして戦果報告を待っていた海軍中央は、これに大きな衝撃を受けた。
この敗北は国民には伏せられたが、天皇には正確に伝えられた。天皇は6月7日に永野修身軍令部総長より報告を聞くや、
「之により士気沮喪を来さゞる様に注意せよ、尚、今後の作戦消極退嬰とならざるようにせよ」(『木戸幸一日記』)
といって、注意を与えた。残念な気持ちはあったものの、それほど動揺せず、むしろ大局的観点から士気を励ましたのである。
しかるに、天皇はいつまでもその態度を貫けなかった。同年8月、今度は南太平洋のガダルカナル島で日米の攻防戦がはじまった。日本軍は、米軍の本格的な反攻を読みきれず、戦力を小出しにして、いたずらに消耗を重ねていった。
天皇も段々と不安になり、ガダルカナル島の戦況を尋ね、大丈夫か、どうなっているのか、確保できるのかと質問を繰り返した。

「近頃我戦果揚らざる傾向あるが如何」(『侍従武官城英一郎日記』)
これは、8月28日の「お言葉」である。3月には「戦果は早く挙がりすぎる」といっていたのに、この変化には驚かざるをえない。
数多の戦闘を重ねたにもかかわらず、日本軍は結局ガダルカナル島の確保を果たせなかった。そして12月31日、ついに同島からの撤退を決するのやむなきに至った。天皇はこの決定を受けて、
「ただガ島攻略を止めただけでは承知し難い。何処かで攻勢に出なければならない」(井本熊男『作戦日誌で綴る大東亜戦争』)
とこぼした。急速な戦局の悪化に焦った天皇は、もはや以前のようにどっしりと構えられなくなっていた。

「米をピシャッとやることは出来ぬか?」
1943年は、太平洋戦争の攻守が完全に逆転した年だった。米軍は、新型空母や戦闘機を次々に配備して、戦力を大幅に強化した。日本軍はこれに抗しきれず、各地で後退を強いられた。
4月には、山本五十六連合艦隊司令長官が南太平洋で戦死し、5月にはアリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅した。
天皇は焦燥を隠せず、陸海軍に対して露骨に決戦を要求しはじめた。その頻度はいささか異常だった。
「何んとかして『アメリカ』を叩きつけなければならない」(6月9日、『眞田穰一郎少将日記』)
「何処かでガチッと叩きつける工面は無いのかね」(7月8日、同上)
「何れの方面も良くない。米をピシャッとやることは出来ぬか?」(8月5日、同上)
いつ決戦か。いつ叩くのか。いつ攻撃をやるのか。天皇の矢のような催促は延々と続いた。1944年に入っても、
「各方面悪い、今度来たら『ガン』と叩き度いものだね」(2月16日、上同)
といった有様だった。だが、米軍を叩きつける日はこなかった。日米の戦力差はもはや広がるばかりで、1944年7月には絶対国防圏の一角に設定されていたマリアナ諸島サイパン島まで陥落してしまった。
つぎの主戦場は、フィリピンだった。天皇はこの戦いについても多くの言葉を残したが、ここでは特攻に関するものを見てみたい。
よく知られるとおり、日本軍の組織的な特攻はこのフィリピン戦で開始された。まず10月26日、及川古志郎軍令部総長より、海軍の神風特別攻撃隊敷島隊などの戦果が報告された。天皇は、こう述べてその功績を讃えた。
「そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった」(読売新聞社編『昭和史の天皇1』)
つぎに11月13日、梅津美治郎参謀総長より陸軍特別攻撃隊万朶隊の戦果が報告された。天皇はこれについても「お言葉」を与えた。
「体当りき[機]は大変良くやって立派なる戦果を収めた。命を国家に捧げて克くもやって呉れた」(『眞田穰一郎少将日記』)
こうして日本軍では、特攻が広く行なわれるようになった。もっとも、これで破滅的な戦局を挽回することなどできようはずもなかった。米軍は日本軍の抵抗を排して1945年3月、マニラを奪還した。
昭和天皇と特攻といえば、4月からの沖縄戦についても言及しておかなければならない。天皇は海軍の作戦に関して、
「航空部隊だけの総攻撃か」(防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(7)』)
と述べ、暗に海上部隊の参加を求めたといわれる。そしてこの発言が、戦艦大和海上特攻につながったとの指摘が存在する。
これについては、本当にそんな発言があったのか疑う声も少なくない。『昭和天皇実録』にも、別の「お言葉」が採用されている。
「現地軍は何故攻撃に出ぬか、兵力足らざれば逆上陸もやってはどうか」(『戦史叢書 大本営陸軍部(10)』)
制海権・制空権がないなかでの逆上陸は、特攻的といえなくもない。これはこれでかなり厳しく重い「お言葉」ではあった。
天皇はいつ敗戦を覚悟したのか。これも諸説紛々たるところだ。
天皇が早く手を打たなかったので戦禍が拡大したとの批判がある一方で、ここまで待たなければ軍部を抑えられず、終戦処理など不可能だったとの見解もある。
いずれにせよ、1945年7月米英中三国の連名でポツダム宣言が発表された。日本への降伏勧告だった。日本は、ソ連を通じての和平交渉に望みを託す傍ら、本土決戦も覚悟せざるをえなくなった。
天皇がここで心配したのは、三種の神器のことだった。7月31日に木戸幸一内大臣にこう語った。
「先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。[中略]万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ」(『木戸幸一日記』)
三種の神器は、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のことで、皇位の証とされる。このうち八咫鏡伊勢神宮に、草薙剣熱田神宮にあった。
そのため天皇は、敵に奪われないように自分の身近に移そうかと悩み、いざというときは「運命を共にする」とまで決心していたのである。
そうこうする間に8月になり、米軍が広島と長崎に原爆を投下し、また頼みの綱だったソ連が対日参戦するに至った。万策尽きた日本は、国体護持の条件が容れられたとみなし、同月14日、米英中ソの四国に対してポツダム宣言の受諾を通告した。有名な玉音放送が行なわれるのはその翌日のことである。