海軍国防政策委員会

十二月十二日、及川海相の認可のもと、海軍中央に「海軍国防政策委員会」ができました。
後に井上成美中将が「百害あって一利もなかった」と断じたほどひどいものですが、これには四つの委員会があり、第一委員会は政策、第二委員会が軍備、第三委員会が国民指導、第四委員会が情報を担当します。

うち第一委員会が国防政策や戦争指導の方針を分担するのですが、海軍省から高田利種軍務一課長、石川信吾同二課長、軍令部から富岡定俊一課長、大野竹二戦争指導部員の四大佐が委員となり、幹事役に藤井茂、柴勝男、小野田捨次郎の三中佐が配属されます。
みんな、対米強硬派です。

うちの一人、高田利種大佐がのちに語っています。
「この委員会が発足したのち、海軍の政策は、ほとんどこの委員会によって動いたとみてよい。
海軍省内でも、重要な書類が回ってくると、上司から、この書類は第一委員会をパスしたものかどうかを聞かれ、パスしたものはよろしいと捺印するといったぐあいに、相当重要視されていた」

「相当重要視」どころではありません。
つまりこの委員会が、南方への進出などこれ以後の海軍国防政策のすべてを牛耳(ぎゅうじ)ったのです。

こうして十二月終わり頃、海軍中央部は、岡、高田、石川、富岡を中心に、南進論の先駆者といえる中原義正少将を人事局長にすえ、彼らが相談して、情報を担当する軍令部第三部長に前田稔少将、戦争指導部員に大野竹二大佐、軍令部第一課に神重徳中佐、山本祐二中佐、軍務局第二課に柴勝男中佐、藤井茂中佐、木阪義胤(きさかよしたね)中佐、同じく第一課に小野田捨次郎中佐ら、対米強硬派を配置しました。
これはみな薩摩か長州出身の気心が知れた連中で、しかもヒトラー大好きのドイツ賛美者でした。

石川大佐は言ったといいます。
ナチスはほんのひと握りの同志の結束で発足したんだ。
われわれだって志を同じくし、団結しさえすれば、天下何事かならざらんや」

すると藤井中佐は、昂然(こうぜん)としてこう言うのを常としました。
「金と人(予算と人事)をもっておれば、このさき何でもできる。
予算をにぎる軍務局が方針を決めて押し込めば、人事局がやってくれる。
自分がこうしょうとするとき、政策に適した同志を必要なポストにつけられる」

また、かって井上成美中将に「三国同盟の元凶だ」と叱責(しっせき)された柴中佐は言いました。
「理性や理屈じゃないよ。
ことを決するのは力だよ、力だけが世界を動かす」

というわけで、昭和十五年暮、海軍中央は対米強硬路線でぐんぐん走り出してゆきます。

上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」