山本五十六司令長官の責任は、比較を絶して巨大である

>第二次世界大戦について
日本が大国アメリカと戦うことになった理由。また、後戻りできなくなってしまったポイントはどこですか?

真珠湾攻撃でしょう。
ルーズベルト真珠湾攻撃の直後、アメリカ国民に対して、日本に対する報復を宣言した。このときの演説で、建国以来初めて、アメリカ国民は団結して一つになった。
アメリカはもともと、自己主張の強いヨーロッパ人がやってきてつくった国である。ヨーロッパ人が指摘することだが、アメリカ人はヨーロッパ人よりもさらに自己主張が強い。何事についても意見の食い違いが激しく、自分の主張を曲げない。独立戦争のとき、隣り合って住んでいる一方が独立派、もう一方がイギリスの国王派に分かれて小銃を撃ち合ったという記録がある。メキシコとの戦争、南北戦争第一次世界大戦への参戦、すべての戦争で国民が対立し合った。だが第二次世界大戦への参戦については、アメリカ国民のほとんどが一致して参戦に賛成した。

11月5日、帝国陸海軍は天皇の裁可を受けて対米戦の作戦命令を発令し、ハワイ真珠湾を奇襲する機動部隊が択捉島単冠湾の基地に集結を開始する。この時以来、作戦準備を推進する上での時間稼ぎとしての意味しか持たなくなっていた。真珠湾奇襲の機動部隊は11月26日の朝、則ちハル・ノート受諾の2日前に択捉島を出発している。


ハルノートに接した日本は、1941(昭和16)年12月1日、開戦日を決定する御前会議を設けた。開会の直前に、東条英機首相は杉山元(はじめ)参謀総長から「どうも海軍はハワイをやるらしい」と耳打ちされた。「何!ハワイ?…話が違うではないか!」と、東条首相は激怒している。と言うのは同年11月15日、開戦は避けられないと追い詰められた日本は「大本営政府連絡会議」において戦略を策定していた。それは「対英米蘭蒋(介石)戦争終末促進に関する腹案」(杉山メモ)に明らかである。
  
第1段階 南方作戦諸資源を確保し、長期不敗、戦略自給の態勢を確保する。
第2段階 西亜作戦インド洋を制圧し独伊と連絡を確保する。インド洋制圧により英米の補給を断つ。これにより英を脱落させる。インド独立のため2個師団を派遣する。(インパール作戦?)
第3段階 インド独立により、対蒋援助物資を断つ。蒋脱落により中国大陸の百万の兵力が予備兵力となる。日本近海の諸島の要塞化と航空化を進める。
第4段階 対米講和に備え国力を充実させる。以上の目途を昭和17年の秋とする。

この「腹案」の中にハワイ作戦などは影も形も存在しない。だから「話が違う」のである。開戦前夜、首相は暗夜の公邸で慟哭している。翌朝、首相は真珠湾攻撃の成功をラジオのニュースで知る。ミッドウェーの敗戦も首相は知らない。一年ほど後に仄聞(そくぶん)するのである。サイパンの防衛は当然に遅れた。真珠湾攻撃もミッドウェー作戦も山本五十六司令長官の「私戦」に過ぎない。山本権兵衛海軍大臣山本五十六司令長官の責任は、比較を絶して巨大である。

 

参考

十一月十五日、連絡会議は「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」を決定した。 ここに並ぶ字句には、不確かな世界に逃げこんだ指導者の曖昧な姿勢が露骨にあらわれていた。 二つの方針と七つの要領があり、方針には、極東の米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立するとともに、 蒋介石政権の屈服を促進し、ドイツ、イタリアと提携してイギリスの屈服をはかる、 そのうえでアメリカの継戦意思を喪失せしむるとあった。 この方針を補完するために、七つの要領が書き加えられていた。 そこにはイギリスの軍事力を過小評価し、ドイツに全幅の信頼を置き、アメリカ国民の抗戦意欲を軽視し、 中国の抗日運動は政戦略の手段をもって屈服を促すという、根拠のない字句の羅列があった。 願望と期待だけが現実の政策の根拠となっていたのである。
保阪正康東條英機天皇の時代(上)」  P.308