統帥権干犯問題

軍を含めた官僚組織は美濃部に恨みがあった。

昭和5年統帥権干犯問題のとき、美濃部の学説が浜口内閣のロンドン海軍条約批准強行の論拠となったことです。さらに昭和9年ごろに「陸軍パンフレット」問題でも強く軍を非難した。また、内務省・司法省も、治安維持法を非難した美濃部に含むとことがあったのです。


当時の天皇の権威をカサに着た軍部や右派にとって、従三位・勲一等・貴族議員・帝国学士院会員で、憲法学の権威である美濃部が、他ならぬ帝国憲法に依拠して批判をつづけることは、まさに目の上のタンコブだったのです。

機関説排撃の口火を切ったのは、狂信的右翼学者蓑田胸喜と組んだ菊池武夫です。昭和10年2月19日議会で美濃部を「叛逆者」「学匪」などとののしりながら、激しく機関説を攻撃しました。

これにたいして同月25日、美濃部は一時間に及ぶ一身上の弁明にたった。

この演説は、自分の学説をわかりやすく理論的に説き、菊池の攻撃が方言集句をとらえた中傷にすぎないことを明らかにした。美濃部の弁明は後世に残る名演説で、議場は水をうったように静かになり、全議員はしわぶき一つなく聞き入り、おわると貴族院では珍しい拍手がわきおこった、と当時の新聞は報道している。

貴族院では、壇上でおこなわれる演説には拍手しないのが原則であったが、この演説には少数ながら拍手がおこった。だが、拍手をおくったものは暴力団体ににらまれたという。

そしてこの時の演説は議場を圧し、陸海軍両相も、「天皇は機関という用語は不快だが、これは学問上の問題だ」と答弁している。当の菊池も「ただ今承る如き内容のものであれば、何も私がとりあげて問題とするに当らぬようにも思う」と述べたほどであった。

鈴木貫太郎自伝によると、天皇は機関説問題がはじまると、「これは困った問題になるよ、ルネッサンス時代の論増と同じようになるぞ」といったという。

美濃部の演説が水ぎわたっていただけに、弁明内容が新聞に大きく報道されたことは、右派勢力を刺激したのです。かれらは天皇機関説玉座の前で主張され、ジャーナリズムで拡大されて国民大衆の間にまで達したと、いきどった。そこで猛然と反撃にのりだした。

その反撃を野党政友会が倒閣に利用したのです。

これは理論上国家に対する右からの革命で、政党政治をになうべき政友会がみずからこの実行部隊に加わったことは、まさに墓穴を掘るものであったという。

これ以後、日本の学問、教育、思想、文化の全分野にひとカケラの合理性も科学性も見られない神がかりの旋風が吹き荒れた。