天皇機関説

実際問題としてどのような憲法解釈によって国家の中枢は運用されていたか


昭和10年美濃部達吉博士を「学匪」として攻撃することによって火蓋が切られた天皇機関説問題から多数を擁しながら内閣に閣僚を送っていない政友会では、これを倒閣運動に利用した。

国体という錦の御旗をふりかざした一部の議員に、政府当局者も、この問題に消極的な議員も引きずられていったのです。つまり、暴力という嵐で議会は審議の場としての機能と価値とを喪失していたのである。

貴族院は、機関説を排撃して国体を明徴にすべき嫌疑案を満場一致可決し、衆議院もまた満場一致これにならった。

岡田啓介首相は「恭しく推みるに我が国体は天孫降臨し給える御神勅により昭示せらるる所にして、云々」という「国体明徴」声明をもってこれにこたえた。

またこのなには「統治権天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりとなすが如きは、是れ全く万邦無比なる我が国体の本義をあやまるものなり」という一句があったのです。

こうして、当時の政党人は、みずからの手で本質的に議会政治を葬り去ったのである。

そして、この事件がただちに昭和軍閥の台頭に道を開き、日本が破滅的戦争へと突入して行ったことは、すでに広く知られている。


ではこれらのことを一般民衆から眺めてみます。

徳富蘇峰は「東京毎日」に連載の「日日だより」に
「記者は未だ美濃部博士の法制に対する著書を読まない。故にここにその所説に付いては語らない・・・・・・記者はいかなる意味においてすらも、天皇機関説の味方ではない・・・・日本国民として九十九人までは、恐らく記者と同感であろう」と書いた。

天皇機関説は当時の憲法学説の主流をなしていたとはいえ、それは大学教育と知識階級の世界に限定されていた。大多数の国民は師範学校や小中学校の教育を通じて天皇を絶対的権威として教えこまれていた。とくに軍隊教育ではなおさらのことである。

そこで明治憲法がどのように解釈されうるにせよ、少なくとも太平洋戦争開幕の時点では、その機関説的解釈が扼殺されていた、という社会的な事実である。

そして、その事実は、首相によって指示され、貴衆両院で満場一致で可決されたところのものであったのである。


当時天皇鈴木貫太郎侍従長にたいして、「主権が君主にあるか国家にあるかということを論ずるならば、まだ事がわかっているけれども、ただ機関説がよいとか悪いとかいう議論をすることは、すこぶる無茶な話である。・・・・・今日、美濃部ほどの学者を葬ることはすこぶる惜しいもんだ」ともらしたという。


のちに、文部省から「国体の本義」が配布され、そこではわが国体は神勅にもとづく世界無比のもので、「我等臣民西欧諸国に於ける所謂人民と全くその本姓を異にして」「その生命と活動の源を常に天皇に仰ぎ奉る」として、美濃部の強調してきた国民の権利はまったく否定された。

憲法にある臣民権利義務や帝国議会の規定も、西欧諸国のように人民の権利擁護のため、ないしは人民の代表機関としてあるのではなく、ただ天皇親政を翼賛せしめるために設けられたものにすぎないとされたのだ。