権威とは

副題「権威とは」

前後間もない時期に日本人に対してパール・ザック女史の呼びかけがあります。
「民衆が自由で独立的で自治的である国はいかなる国でも、つねに善なる人々と悪なる人々との間に闘争の行われる国である。もしこの闘争が存在しないならば、それは暴君が支配して善き人々が力を失っていることを意味する」
また「永遠監視の眼は、言論の自由という問題に関して始終間断なく注がれていなければならない。・・・・善なる人々は他人の声を黙らせようとは浴せず、すべての人に対して自由を許容せんと浴す。彼らは完全な真理を把握しているのは自分たちだというほど慢心してはいきない。すべてのものが自由に物をいうことを許されている以上、悪なる人々もまた発言するであろう。しかし善なる人々の耳は悪なる人々の耳より数多いはずであり、一段と明瞭なはずである。このことを善なる人々は自らの責務として認めなければならぬ。なぜなら自由というものは真の自由でなければならず、自由がある一部の人によって、他のものによっては行使され得ぬということは、あり得べきことではないからである」

上記は終戦後間もなく「日本の人々に」と題してパール・ザック女史から毎日新聞に寄せられた文章からです。
新聞やテレビのデマゴギーで、本人には自主的・自発的に行動しているかのごとき錯覚を持たせながら付和雷同する亜Qの徒と化する傾向がある。特に感情的な面からの働きかけは、人々に合理性に考えることを忘れさせる。だから、主権者の国民は政府に対して、正確に事実を知らしめる権利がある。そのことを政治家や国は肝に銘じて違背してはならないのである。
君臣・主従・親分子分の社会では真理はそれが客観的に妥当な結論なるが故に真理とされるのではなく、真理の源は上の権威にあるとされ、「物事を合理的に考える」傾向からして異端児されるような仕組みの社会では、それぞれの会議をとることじたいすでに止むを得ざる悪外に属する。科学的なデータにもとづく、合理的な判断の結論も、たまたま権威の座にあるものの意に適うことによってのみ正しいとされ、善とされるに過ぎない。そこでは善とは、つまり権威につくということであり、権威に帰属しないことがそのまま悪に通じ、しばしば悪の筆頭におかれる。
だから、非合理主義的な考えから脱却して、事大主義・権威主義な處世哲学への批判なくてしては、パール・ザック女史の記した第一行からして書かれることができない。