天皇と女王蜂

西欧の自由・平等思想に対置されるものが、日本に実らなかったということです。
つまり、私の言う近代とは理念化されたあるべき近代のことであって、現実の明治以降に作り出された天皇国家の日本社会では、いまだそこへ到達しえない。それは、まずしく暗い、封建制を濃厚に残した中世の突然変異の変種の社会で、政策の結果についてその責任がない国が近代国家などと胸を張って言うことができるのだろうか、近代国家などと言うよりも女王蜂と働き蜂の関係のような、動物的原始国家というべきでしょうね。

駐日大使ジョセフ・グルーは「天皇はたとえて言えば、女王蜂のようなものです。女王蜂はなにも決定しないけれども、働き蜂から敬愛されている。もし女王蜂がいなければ、蜂の巣の社会は解体してしまうように、日本という国も戦後の再建における精神的支柱として天皇を必要としている。日本人は秀れた国民である」
最後に取って付けたような言葉があるが、グルーは日本に近代らしくない意識形態が色濃く残されていたことをよく知っていたようですね。


昭和20年の暮れ尾崎行雄が「議会」というものについて語った次のような言葉がある。「私は大きい政党にも小さい政党にも関係してその首脳部において働いてきたが、どうしても政党は出来ないで皆徒党になってしまう。その根本はやはり封建時代の未開の魂がすっかりしみこんでいて文明の魂が入り得ないからである。政党というものはいうまでもなく主義方針により離合集散を決しなければならぬが、日本では皆親分子分の主従関係という頭でやっている。これでは政党ではない、徒党である」

この全生涯を民主的な憲政のために苦闘してきた老政客の経験から出た批判だけあるだけ、耳の痛い政治家も多くいるのではないだろうか。

日本では皆親分子分の主従関係の頭でやっているのは政党ばかりではない。社会全体がことごとくこの範疇に分類されるといっても言い過ぎでないように見えるのは、思うに、これ以外の団結の形式を知らぬ世界だからにちがいない。或はこれが部下を把握する最良の経験であり、いわゆる政治力なるものを身につけるために最も効果的な方法であるような国柄だからであろう。
家来のいる民主政権などというものはデモクラシーなどとはほど遠いものだ。