ゴリラ

ゴリラの生態を長期にわたり記録されたものを見ました。
ゴリラはボスを中心として集団をくんで生活しています。ボスは見るからにオスの中で大きな体でいかにも強そうでした。たまにボスゴリラは二足で立ち上がり胸をポコポコと叩いたり、近くにある草や木の枝などをくわえ、それを投げます。あっちいたり、こっちいたったり気勢を発し突進しながら木を引き倒したり叩いたりし、最後に力一杯地面を叩きます。自己の存在を主張して「おれは偉くて強いぞ、だれも俺には、勝てないぞ」と言っているようでした。
解説では、ときたま、定期的にこのような行動にでるのは、他のオスに対しての牽制を含んでいるそうです。この行動パターンはだいたい同じ場所で行われるそうです。
ボスの周りにはメスゴリラが群がっていますが、他のオスゴリラらは近くに寄りません。これは、ボスが全メスを独占しているということです。本当の夢のようなハーレムがゴリラ世界では、あったんですね。(内心は夢のようだ)
青年ゴリラでも成長とともに体が大きくなりボスに対抗できるゴリラもでてきます。そこで、この大きくなった青年オスゴリラがボスに喧嘩をふっかけるときもあります。もちろん熾烈な闘争がおこなわれますが、どちらかが戦意を失ったときには、失った方が逃げ出して戦いが終ります。勝った法も最後まで追いかけることはしないで戦いは終局します。
このような戦は、他のオスゴリラでもありますが、終ったときは、もとのように平和の世界が訪れます。負けた方のオスも遠くから離れて「俺も彼女が欲しい」ような感じで見ています。
ゴリラは霊長類で人は万物の霊長(生物の中で最も進化したもの)であることからすれば原人の生態も推理することができるのではないでしょうか。初期原人もボスを中心として集団をくんで生活していくことが、厳しい自然や他のグールプの原人らとの生存本能をかけて生き抜いて行こうとすれば、メスも強い男の種(DNA)を望むことは、弱肉強食の世界では当然のように思われます。
古代から人間の本質的には変わらないと思うが、言葉の発明により、その人間集団の構成員に共通の価値観や反映した物心両面にわたる活動の様式は創り出され、それはとどまることがない。生存活動と必ずしも直結しない形でも、真善美を追求したり獲得した知恵・知識を伝達したり人の心に感動を与えたりする高度の精神活動、すなわち学問・芸術・宗教・教育・出版などの「精神文化」も発達するにつけ人類は共生または戦いながらも生存を図ろうとする。
動物は環境においてあり、環境によって作られる。しかし人間は環境によって作られるだけでなく、同時に環境を作っていくのである。
それだから環境を形成することは同時に種族繁栄を確かなものとするものである。生存本能からもっと高度な環境すなわち社会を形成するのである。このように人間と生存本能と環境(社会)とは相好に弁証法的関係にある。弁証法とは対立・矛盾を、克服・統一することによって、より高次の結論に到達する、発展的な考え方です。生存本能は単なる自分が それを冷静に観察することが出来る 社会ではなく、生存本能は自分の自由意志で行動する意味をもっているものである。
よって、人間の生存本能は社会の外にあるものではなく、かえってその形成要素と考えなければならない。したがって生存本能に対する責任は、実は自己自身に対する責任ともいえます。
つまり強い男というものは、自然の摂理により常に自分の種を撒き散らすものであるが、それでは、高度の発達した社会や環境により規制されたものとなることはしかたがないと思う。