(23.8.27) NHKスペシャル 円の戦争  もう一つの不思議な通貨戦争

 なんとも不思議な番組が放映された。NHK終戦特集として放映した「円の戦争」と言う番組である。この「円の戦争」とは日中戦争(昭和12年~)から太平洋戦争(昭和16年~)にいたる約8年間の戦費、その中でも中国戦線の戦費をどのようにして調達したかをあぶりだそうとして追ったものである。

 しかしこの番組は非常に理解するのが難しく、想像力を駆使して不足の情報を補わなければならなかった。
理由は二つあって、一般に戦時経済についての知識が私を含めて不足していることと、さらに戦時経済そのものが秘密のベールにつつまれていて今回明らかになった内容を含めて情報が極端に少ないことによる。
 しかしそれにも関わらず当時欧米諸国から見たら最貧国の日本が約8年間にもわたって戦争を継続できたからくりがあるはずで、この番組ではそのからくりが銀行間の「預けあい」というシステムにあったと述べていた。
 当時大日本帝国には3つの発券銀行があり、日本銀行朝鮮銀行台湾銀行がそれである。それぞれが円を発行しており等価(100日本円=100朝鮮円)で交換されていたが、なぜ発券銀行を別にしたかの理由は「植民地経済が悪化したときにそれをすぐに切り離すことができるように」との理由からだったという。

注)現代的なセンスからは、統一通貨円で日本、朝鮮、台湾に円圏を確立して経済統一を図るほうが合理的に思われるが、当時は3地域の経済の発展状況が相当異なっていたため、別個の経済圏としたほうが合理的と判断したのだと思われる。 

 しかしこの個別に円を発行できるという独自性が朝鮮銀行の独走を招いた。それは朝鮮銀行勝田総裁が朝鮮銀行を朝鮮のみならず満州、北支を含めた中国全土の共通通貨発券銀行にしようとの構想を持っていたからだと言う。

 これはちょうど関東軍高級参謀板垣征四郎や石原 莞爾が中国全土を日本の支配下に置こうとして満州事変(昭和6年)から日中戦争へと戦線を拡大していった裏の資金調達の事情と一致すると言う。
私は満州事変も日中戦争も日本の国家予算で実施していたものと思っていたが、実際は関東軍は現地での物資調達が可能な仕組みを考案していたという。

注)当時の大蔵大臣高橋是清は軍部を抑える手段として、軍事予算を絞り込んでおり関東軍は自由に活動できる資金を国家から支給してもらえなかった。このため独自で資金調達をする必要に迫られていた。

 石原 莞爾の言う「戦争を持って戦争を養う」と言う思想だが、はっきり言えば「必要なものは現地で収奪する」と言う思想である。
これは近代戦争としては異例とも言っても良い手法で、アメリカ軍などは武器・弾薬・食料を含めてすべて本国からの輸送によっており、戦費はすべて国家予算で統制されていた。

 

 一方日本は満州事変にしろ日中戦争にしろ、政府や大本営の不拡大方針を無視して現地軍が戦線を拡大させているため政府は予算をつけない。だから関東軍は資金を自分で捻出せざるをえずその財布は「預けあい」と言う方法を編み出した朝鮮銀行だったという。

 なぜ「預けあい」と言うような方法を考案したかの理由は朝鮮銀行といえどもなんの根拠もなく通貨を発行することはできないからである。発券するにはそれなりの根拠が必要で、反対に言えば根拠さえあればいくらでも発券できる。

 番組ではこの「預けあい」の仕組みを図解していたが、いまひとつ理解ができなかった。
通常「預けあい」と言うのは現在の経済用語でスワップといい、信用がない通貨と信用がある通貨を互いに交換して助け合うことで、最近ではリーマン・ショック後の韓国政府を支援するために、円とウォンのスワップ協定が結ばれた事例がある。
注)韓国のウォンが急落して決済通貨として利用できなくなった場合、韓国政府はスワップで手に入れた円を市場で売却してドルに変えてそのドルで決済をするという仕組み。

 朝鮮銀行が編み出した預けあいとは、朝鮮銀行の別会社として設立した中国連合準備銀行(連銀)と言う銀行との間で朝鮮銀行券と連銀券の預けあい(スワップ)をおこない、連銀は朝鮮銀行券を担保に連銀券を発行したのだという。

注)実際は軍部の印刷所でこの連銀券を発行していたので軍票となんら変わらない。
 何のことかさっぱり分からないが、「連銀券の後ろ盾は朝鮮銀行であり、さらに朝鮮銀行の後ろ盾は大日本帝国だから連銀券を信用しろ」と言うことのようだ。
そして関東軍はこの連銀券を使用して現地で主として食料や衣類等の現地調達が可能な物資の調達を行った。

注)小銃・機関銃・大砲といった装備や軍用トラック等は現地での調達は不可能なので、国家予算で支給されていたが、一方食料・現地の住宅・衣類・荷物を運ぶための荷駄・兵隊の遊興費等は連銀券で支払をしていた。
 当時中国には軍閥が割拠して軍閥ごとに通貨(通常は軍票と言う)が発行されており、1000種類に登っていたが、この中で最も信用されていたのは蒋介石が発行した通貨元であったと言う。
なぜ通貨元が最も信用されていたかと言うと、元を支えるためにイギリスとアメリカが資金援助していたからで、元の最後のよりどころはポンドとドルだったことが分かる。
注)蒋介石の通貨の信用は元をポンドやドルが後ろ盾になっていると言うところに有った。一方関東軍が発行した連銀券は朝鮮銀行券に換えられなかったので、紙切れと同様とみなされまったく信用がなかったという。

 日本の戦争は特に食料調達については現地主義であり、はっきり言ってしまえば連銀券(軍票)と言う紙切れで収奪していたことになる。
この金額がどの程度になるかは難しい計算だが、明確に分かっている日中戦争から太平洋戦争の8年間の軍事費7559億円(現在価値で約300兆円)のうち40%、120兆円は預けあいで調達したことになるのだそうだ。
 だから日本軍が主として中国戦線で費消した戦費のうち、120兆円相当は中国人からの収奪だったと言うことになる。
「うぅーん」唸ってしまった。

 当時の国民党も共産党も日本軍もそれぞれの通貨を発行して食料等を現地調達していたのだが、収奪された中国の民衆はたまったものではなかっただろう。その中でも国民党が発行した通貨元が相対的に信頼を得ていたと言うことのようだ。

 この番組で紹介された預けあいと言う仕組みは単なる技術的な勘定処理の手段で、はっきり言ってしまえば連銀券はいくらでも増刷できる紙切れに過ぎないのだから、そうした意味ではタダで強奪しているのとなんら変わりがない。
日中戦争で日本が中国人から嫌われた理由も当然と思われる番組の内容だった。

 

 なんとも不思議な番組が放映された。NHK終戦特集として放映した「円の戦争」と言う番組である。この「円の戦争」とは日中戦争(昭和12年~)から太平洋戦争(昭和16年~)にいたる約8年間の戦費、その中でも中国戦線の戦費をどのようにして調達したかをあぶりだそうとして追ったものである。

 しかしこの番組は非常に理解するのが難しく、想像力を駆使して不足の情報を補わなければならなかった。
理由は二つあって、一般に戦時経済についての知識が私を含めて不足していることと、さらに戦時経済そのものが秘密のベールにつつまれていて今回明らかになった内容を含めて情報が極端に少ないことによる。
 しかしそれにも関わらず当時欧米諸国から見たら最貧国の日本が約8年間にもわたって戦争を継続できたからくりがあるはずで、この番組ではそのからくりが銀行間の「預けあい」というシステムにあったと述べていた。
 当時大日本帝国には3つの発券銀行があり、日本銀行朝鮮銀行台湾銀行がそれである。それぞれが円を発行しており等価(100日本円=100朝鮮円)で交換されていたが、なぜ発券銀行を別にしたかの理由は「植民地経済が悪化したときにそれをすぐに切り離すことができるように」との理由からだったという。

注)現代的なセンスからは、統一通貨円で日本、朝鮮、台湾に円圏を確立して経済統一を図るほうが合理的に思われるが、当時は3地域の経済の発展状況が相当異なっていたため、別個の経済圏としたほうが合理的と判断したのだと思われる。 

 しかしこの個別に円を発行できるという独自性が朝鮮銀行の独走を招いた。それは朝鮮銀行勝田総裁が朝鮮銀行を朝鮮のみならず満州、北支を含めた中国全土の共通通貨発券銀行にしようとの構想を持っていたからだと言う。

 これはちょうど関東軍高級参謀板垣征四郎や石原 莞爾が中国全土を日本の支配下に置こうとして満州事変(昭和6年)から日中戦争へと戦線を拡大していった裏の資金調達の事情と一致すると言う。
私は満州事変も日中戦争も日本の国家予算で実施していたものと思っていたが、実際は関東軍は現地での物資調達が可能な仕組みを考案していたという。

注)当時の大蔵大臣高橋是清は軍部を抑える手段として、軍事予算を絞り込んでおり関東軍は自由に活動できる資金を国家から支給してもらえなかった。このため独自で資金調達をする必要に迫られていた。

 石原 莞爾の言う「戦争を持って戦争を養う」と言う思想だが、はっきり言えば「必要なものは現地で収奪する」と言う思想である。
これは近代戦争としては異例とも言っても良い手法で、アメリカ軍などは武器・弾薬・食料を含めてすべて本国からの輸送によっており、戦費はすべて国家予算で統制されていた。

 

 一方日本は満州事変にしろ日中戦争にしろ、政府や大本営の不拡大方針を無視して現地軍が戦線を拡大させているため政府は予算をつけない。だから関東軍は資金を自分で捻出せざるをえずその財布は「預けあい」と言う方法を編み出した朝鮮銀行だったという。

 なぜ「預けあい」と言うような方法を考案したかの理由は朝鮮銀行といえどもなんの根拠もなく通貨を発行することはできないからである。発券するにはそれなりの根拠が必要で、反対に言えば根拠さえあればいくらでも発券できる。

 番組ではこの「預けあい」の仕組みを図解していたが、いまひとつ理解ができなかった。
通常「預けあい」と言うのは現在の経済用語でスワップといい、信用がない通貨と信用がある通貨を互いに交換して助け合うことで、最近ではリーマン・ショック後の韓国政府を支援するために、円とウォンのスワップ協定が結ばれた事例がある。
注)韓国のウォンが急落して決済通貨として利用できなくなった場合、韓国政府はスワップで手に入れた円を市場で売却してドルに変えてそのドルで決済をするという仕組み。

 朝鮮銀行が編み出した預けあいとは、朝鮮銀行の別会社として設立した中国連合準備銀行(連銀)と言う銀行との間で朝鮮銀行券と連銀券の預けあい(スワップ)をおこない、連銀は朝鮮銀行券を担保に連銀券を発行したのだという。

注)実際は軍部の印刷所でこの連銀券を発行していたので軍票となんら変わらない。
 何のことかさっぱり分からないが、「連銀券の後ろ盾は朝鮮銀行であり、さらに朝鮮銀行の後ろ盾は大日本帝国だから連銀券を信用しろ」と言うことのようだ。
そして関東軍はこの連銀券を使用して現地で主として食料や衣類等の現地調達が可能な物資の調達を行った。

注)小銃・機関銃・大砲といった装備や軍用トラック等は現地での調達は不可能なので、国家予算で支給されていたが、一方食料・現地の住宅・衣類・荷物を運ぶための荷駄・兵隊の遊興費等は連銀券で支払をしていた。
 当時中国には軍閥が割拠して軍閥ごとに通貨(通常は軍票と言う)が発行されており、1000種類に登っていたが、この中で最も信用されていたのは蒋介石が発行した通貨元であったと言う。
なぜ通貨元が最も信用されていたかと言うと、元を支えるためにイギリスとアメリカが資金援助していたからで、元の最後のよりどころはポンドとドルだったことが分かる。
注)蒋介石の通貨の信用は元をポンドやドルが後ろ盾になっていると言うところに有った。一方関東軍が発行した連銀券は朝鮮銀行券に換えられなかったので、紙切れと同様とみなされまったく信用がなかったという。

 日本の戦争は特に食料調達については現地主義であり、はっきり言ってしまえば連銀券(軍票)と言う紙切れで収奪していたことになる。
この金額がどの程度になるかは難しい計算だが、明確に分かっている日中戦争から太平洋戦争の8年間の軍事費7559億円(現在価値で約300兆円)のうち40%、120兆円は預けあいで調達したことになるのだそうだ。
 だから日本軍が主として中国戦線で費消した戦費のうち、120兆円相当は中国人からの収奪だったと言うことになる。
「うぅーん」唸ってしまった。

 当時の国民党も共産党も日本軍もそれぞれの通貨を発行して食料等を現地調達していたのだが、収奪された中国の民衆はたまったものではなかっただろう。その中でも国民党が発行した通貨元が相対的に信頼を得ていたと言うことのようだ。

 この番組で紹介された預けあいと言う仕組みは単なる技術的な勘定処理の手段で、はっきり言ってしまえば連銀券はいくらでも増刷できる紙切れに過ぎないのだから、そうした意味ではタダで強奪しているのとなんら変わりがない。
日中戦争で日本が中国人から嫌われた理由も当然と思われる番組の内容だった。

 

NHKスペシャル『圓の戦争』 より文字起こし

66年前の戦争の負の遺産が、思わぬ場所に刻まれていた。東京霞が関財務省。戦争で使われた膨大な費用の一部が現在(いま)も借入金として記載されている。その額414億円。終戦時の国家予算を超える巨額の借金が何故残されたままなのか・・・・。

日本人だけで310万人もの犠牲者を出した日本の戦争。日本は中国やアメリカを相手に8年にも及ぶ戦いを続けた。戦線はアジア・太平洋に拡大、長期化した戦争は国力を遥かに超えるものだった。天文学的な額に上った戦費。しかし、それがどのように賄(まかな)われたのか、詳しいことは分かっていなかった。

今、日本軍と深く結び付いていた銀行の極秘資料が、次々と見つかっている。日本軍が占領地で、国内では見たことのない通貨「圓(えん)」を作り出していた実態。

「極端に言えば、中国での戦争は、全く日本円を使わないで済んでいる」(研究者)

金融のエリート達は、戦費を生み出す驚くべきシステムを作り上げていた。

「破綻しますよ、いつかは。いつかは破綻します」(元銀行員)

国を破滅へと導いていった戦争。日本軍の影に常に存在していた通貨「圓」。知られざる「圓」の戦争を見つめた――。


昭和6年(1931年)9月、満州事変が勃発。日本の関東軍が、満州と呼ばれた中国東北部を武力で制圧、其処に傀儡国家(実質的に他国の統制下にある国)を作った。計画したのは、関東軍高級参謀の板垣征四郎(1885-1948)大佐。戦後、A級戦犯として死刑となった。そして、作戦主任参謀の石原莞爾(いしわら かんじ 1889-1949)中佐。

国の不拡大方針を無視して行われた満州事変。現地軍の独走を支えた戦費はどう賄(まかな)われたのか。本来、戦争に必要な費用は国から支給される。しかし、石原中佐には「戦争をもって戦争を養う」という思想があった。戦争に必要な資金や物資を、戦争によって自ら賄っていくというものだった。

関東軍の現地での資金調達。その実態が初めて浮かび上がってきた。

東京郊外の住宅街。此処に、関東軍と深い関わりを持つ国策銀行の内部資料があった。当時、日本の植民地だった朝鮮半島に作られた朝鮮銀行。戦争に加担したとして戦後、GHQ連合国軍総司令部に解体された。

「これは朝鮮銀行の極秘資料でしてですね、実態とか綴られている重要書類が全部入っています」。戦後、散逸していた資料を集め、研究してきた多田井喜生(たたい よしお 1939-)氏。多田井氏は、朝鮮銀行の資産を引き継いだ日本債権信用銀行で常務を務めた。社史の編纂にも携(たずさ)わり、銀行が日本の戦争にどのように加担したのかを調べてきた。

朝鮮銀行関東軍に資金を提供していたことを示す極秘文書。

朝鮮銀行券は、朝鮮・満州に留まらず、熱河の聖戦の際にも、軍事支便(軍事の支払い)に多大な便益を与えてきた」

熱河省での作戦(昭和8年(1933年)の熱河作戦)など満州事変における関東軍の軍事行動を支えたのが、朝鮮銀行の「圓(えん)」だった。

戦争を支える自らを事変銀行と自負していた朝鮮銀行。しかし関東軍への協力は、しばしば政府の意向を踏まえず独断で行われた。何故そのようなことが可能だったのか。

当時日本は、異なる3つの「圓(えん)」を発行していた。本土では日本銀行券、植民地の台湾銀行券と朝鮮銀行券、それぞれが同じ価値で交換出来た。万一植民地の経済が悪化した場合、本土から切り離す為に、敢えて別々に「圓」を発行していた。自由に「圓」が発行出来たことが、朝鮮銀行の独断での資金提供を可能にしていた。

「事変がある度に、朝鮮銀行券というのが、陸軍の軍事面の、軍事支出を支える銀行として、色々な面で活躍していく、と。利用されていく、と。朝鮮銀行券というのは、関東州から更には満鉄付属地、満州全体へと通貨圏を広げてゆくわけです」(元日本債権信用銀行常務・多田井喜生氏)

軍と朝鮮銀行には、朝鮮半島から中国大陸に影響力を拡大するという共通の狙いがあった。朝鮮銀行元総裁の日記である。大蔵大臣を二度務めるなど戦前の経済界の重鎮だった勝田主計(しょうだ かずえ 1869-1948)。満州事変後、陸軍の幹部が毎日のように訪れていた。中国における経済や金融について意見を求められていた。

昭和8年(1933年)4月4日、鈴木貞一少佐来る」

大陸強硬派で陸軍の中国政策に強い影響力を持っていた鈴木貞一(すずき ていいち 1888-1989)中佐。後にA級戦犯として終身刑を受けた。

昭和9年(1934年)12月6日、板垣少将来訪」

満州事変を首謀した板垣少将も訪れていた。

陸軍の実力者達に自らの経済的な思想を伝えていた勝田元総裁。中国に「圓」の経済圏を作るという壮大な構想があった。満州事変の3年前に書かれた未発表の原稿にこう記されている。

「経済力の強い国の貨幣が、他の国で使われることはまた、自然な状況である」

強い通貨こそが経済の弱い国を支配すべきという持論だった。

日本が傀儡国家・満州国を作った当時、中国には南京に国民政府があったものの地方では軍閥が割拠、それぞれが独自の通貨を発行し、経済はバラバラの状態だった。そこを「圓」で統一し、日本の一大経済圏を作るというのが、勝田元総裁の考えである。しかしそれは、一歩間違えば、経済的な侵略にも繋がりかねない思想だった。

「勝田(鮮銀総裁)の持っている思想、そういうものは、軍人側にとっては利用し易いもの。軍の大陸侵攻の方向と、朝鮮銀行の『圓』の方向というのは、合致するわけですね」(多田井氏)

関東軍は更に中国の懐深くへと狙いを定めた。

昭和10年(1935年)6月、関東軍の参謀達が密かに会合を開いていた。その時の記録が残されていた。終戦時、GHOが押収していた資料である(『第一回関東軍幕僚 経調懇談会記録』)。関東軍参謀副長となっていた板垣少将。その配下にいた田中隆吉(1893-1972)中佐ら4人の参謀達が意見を述べた。

「軍のほうとしても、差し当って武力によってやることは出来ないから、経済工作によって、北支(ほくし)、中支(ちゅうし)、南支(なんし)とやっていこう。金融的に北支を支配し、国民党政権を倒す」

関東軍は、国民政府の支配下にあった北支と呼ばれる華北地域を狙っていた。しかし其処には、古くから権益を持つヨーロッパの列強(英・仏・独)や、北から共産主義の拡大を図るソビエトの存在もあった。軍が武力ではなく、政治・経済的な工作を推し進めた。

昭和10年(1935年)11月、軍は国民政府の不満分子を担ぎ出し、傀儡政府「冀東(きとう)防共自治政府」(1935~1938)を打ち立てる。緊張は俄(にわ)かに高まっていった。日本政府は強い危機感を抱いていた。現地軍の独走や朝鮮銀行の戦費の支払いを政府は追認させられる形になっていた。

大蔵大臣・高橋是清(たかはし これきよ 1854-1936)。当時、軍事費の増額を求める軍部と激しく対立していた。

昭和9年(1934年)、5相会議での発言「軍事予算の膨張は、いたずらに外国の警戒心を刺激し国民経済の均衡を破ることになる」

高橋蔵相は現地軍と結び付いていた朝鮮銀行から、通貨の発行権を取り上げることも視野に入れていた。

昭和10年(1935年)2月、衆議院第67回議会での発言「今まで朝鮮銀行が国家に迷惑を掛けた原因は、発行権がある為、金が自由になり過ぎる点にある。朝鮮銀行に『圓』を発行させず、日銀券に統一したい」

金融経済界にはこうした考えを支持する人達がいた。かつて高橋蔵相が頭取を務めていた横浜正金銀行。日銀と共に日本を代表する銀行として国際金融を一手に担っていた。国際協調を重視する金融のエリート達だった(昭和2年(1927年)、未モルガン商会総裁と正金幹部の写真)。

その1人、昭和10年(1935年)に横浜正金銀行に入行した小原正弘氏(1912-)、99歳。京都帝国大学出身の小原氏は、国際的な市場で活躍したいと、正金銀行を選んだ。入社時の名簿が残されていた(昭和10年(1935年)4月、横浜正金銀行『人事週報』)。当時、社内では軍の大陸での行動に懸念が広がり始めていたと言う。

「僕ら普通のものには(あの時代は)暗かったね。嫌な空気でしたよ、今思えば」

翌年、昭和11(1936年)年2月26日、二・二六事件が勃発。陸軍の青年将校が、高橋蔵相ら重臣達を暗殺した。その日、小原氏は正金銀行の本店で事件の一報を聞いた。

「これはえらいことになったな、何でああいう人を殺したのかと思いましたね。ああいう人がいないとね、陸軍、あの当時は軍って言ってたけど、軍の思うようになっちゃうんじゃないかということを考えましたね」

軍部と対峙し、軍事費を抑えていた高橋是清。もはや止める者は誰もいなかった。

二・二六事件の翌年、昭和12(1937年)年7月、日中戦争が勃発。日本軍の侵攻と共に一大経済圏を作る為の「圓」の戦争が本格化していく。華北に展開する第5師団の板垣中将、そして、関東軍東條英機(1884-1948)中将。2人は満州国に隣接する地域に進軍、3つの傀儡政権が作られた。

関東軍の極秘文書に、関東軍の東條中将がこの時に出した通貨に関する指示が残されていた。

「幣制及び金融機構の一元的統一、研究を進むべし」

傀儡政権に「圓」の影響力を広げるよう指示していた。

現地軍の意向を受けて、朝鮮銀行員は前線深くまで従軍してゆく。リュックに大量の朝鮮銀行券を詰めて同行。占領と共に現地に出張所を開設していった。朝鮮銀行員は、現地の通貨を回収し、「圓」への切り替えを図った。しかし、外国の通貨への反発は想像よりも強く、朝鮮銀行券は浸透しなかった。

そこで、日本軍は朝鮮銀行券に代わる新たな「圓」を作り出す。

昭和12年(1937年)12月、華北を占領した日本軍が打ち立てた傀儡政権・中華民国臨時政府(1937~1940)。この傀儡政権が発行した中国聯合準備銀行券。この連銀券には、人々に受け入れられるよう、“中國”という文字が入っていた。

聯銀券を浸透させる為、強引な手法が取られていた。戦時中の日本に纏(まつ)わる資料が大量に保管されている北京市档案館(とうあんかん)。日本の傀儡政権・中華民国臨時政府の資料が初めて公開された。

「聯銀券を使わなかった市民は、最高で無期懲役」という厳しい罰を科せられていた。

日本側の資料も残っていた。東京目黒にある防衛省防衛研究所陸軍省経理局の極秘資料。強制的に聯銀券を使わせる為の方策が講じられていた(陸軍省経理局『聯銀券価値向上並びに流通強化策』)。

小麦粉や石油などの必要物資を聯銀券でしか買えないようにしていた。更にアヘンという記述。当時中国には、麻薬であるアヘンの中毒者が溢れていた。中毒者に対しても、アヘンを連銀券で売るよう指示していた。

日本軍は華北を抑えたものの、あくまで点と点に過ぎなかった。周辺ではゲリラ戦が頻発し、戦争は長期戦の様相を呈していた。現地では膨らみ続ける戦費を賄(まかな)う為の手段が求められていた。聯銀券を利用して資金を生み出す“或るカラクリ”が編み出された。

朝鮮銀行の極秘資料の研究を続けてきた多田井喜生氏。多田井が収集した資料の中に、聞き慣れない言葉があった。

「中国聯合準備銀行との『預ヶ合』契約で調達する」

この「預ヶ合」という仕組みに鍵があった。

それまで華北では、朝鮮銀行が現地軍に、自ら発行する「圓」を戦費として渡していた。その戦費は国の臨時軍事費特別会計から賄われた。しかし、その額は急激に膨らんでいた。

(ニュース映画『支那事変国債』より)「今回の支那事変における戦費の大部分は、国債を発行して我々国民からお金を借りるという方法を取るのです。・・・・」

政府が戦時国債の購入を呼び掛けるニュース映画。戦費の大部分は国民からの借金で賄(まかな)っていたが、そのことが国の経済を脅かしていた。

朝鮮銀行が編み出した「預ヶ合」。傀儡銀行(中国聯合準備銀行)に無制限に金を発行させる方法だった。通貨は何の裏打ちもなく発行出来ない。朝鮮銀行が傀儡銀行と「預ヶ合」契約を結ぶ。日本から送金された「圓」を裏打ちとして、傀儡銀行が通貨を発行し、現地軍に渡す。そして、日本の軍事費に借金として計上される。

しかし裏打ちであるこの「圓」を、傀儡銀行は引き出すことは出来ず、国庫に戻される。日本の懐を痛めることなく、無尽蔵に生み出される戦費。それは戦争のツケを将来に先送りしているに過ぎなかった。

「国力がない日本としてはよく考えた知恵だとは思いますけどですね・・・・。極端に言えば、中国での戦争は全く日本円は使わないで済んでいると、そういうことの仕組みが出来ているわけです」(元日本債権信用銀行常務・多田井喜生氏)

預け合いによって膨大な聯銀券が溢れ、占領地の経済は混乱した。華北における聯銀券。そして蒙彊(もうきょう)地域にも新たな通貨・蒙彊銀行券を作り、「圓」の戦争を拡大する日本軍。しかし水面下では、中国が対抗する動きを見せていた。

当時、日本の傀儡銀行には多くの日本人が出向させられていた。横浜正金銀行の小原正弘氏。昭和14年(1939年)、中国聯合準備銀行へ出向したが、小原氏が目の当りにしたのは、日本の「圓」の脆さだった。

「日本軍のね、日本政府のバックにあるお札が出回っていて、それが日が暮れると法幣(中国の通貨「元」)の世界だという風なことを言われましたけど、武力で押し切っていられるうちは保つでしょう、表面的には。でも、それが弱ってきたら値打ちはガタ減りでしょうねぇ」

日本の占領地で広がっていたのが、中国の「元」だった。中国国民政府を率いていた蔣 介石(蔣 中正 1887-1975)は日中戦争が始まる前に“或る政策”を打ち出した。国民党本部に保管される、蔣 介石の公務を記した日記(昭和14年(1939年)『抗戦与建国』)。

昭和10年(1935年)年11月4日、全国で新貨幣制度を実施」

蔣 介石は、「法幣」とも呼ばれる「元」を生み出した。国民政府の他に共産党など数々の軍閥が割拠し、それぞれが通貨を発行していた中国。通貨の種類は1000を超えていた。そこに登場したのが、統一通貨「元」。蔣 介石にとって、「元」は中国を1つに束ねると同時に、日本と対峙してゆく有力な手段となった。

「『元』は蔣 介石にとって、抗日戦に打って出る重要な要素となりました。『元』は武器よりも強い殺傷力があったかも知れない。経済的基盤が無ければ勝てないからです」(台湾国史館研究員・卓 遵宏氏)

新たに誕生した「元」の背後に、中国に権益を持つイギリスやアメリカの存在もあった。昭和12年(1937年)、上海の金融街。日本軍の侵攻を食い止める為、イギリスとアメリカは多額のドルとポンドを提供して「元」の価値を支えていた。欧米の支援を受け、「元」は瞬(またた)く間に中国全土に浸透した。

「もし日本との戦いが『元』誕生より前に発生したならば、中国は早く敗れ、或いは既に恥を忍んで和平を求めていたかも知れない。現在は幸いにして『元』が存在し、これによって極めて厳しい局面でも長期戦の基礎を固めることが出来る」(昭和14年(1939年)『抗戦与建国』)

日本と中国の戦争は泥沼化していった。

「圓」の戦争は、その舞台を更に広げていった。その実態を示す資料が見つかった。ダンボール700箱にも及ぶ膨大な資料である。世界20カ国に支店を持ち、日本の国際金融を一手に扱ってきた、あの横浜正金銀行。中でも重要な資料が『頭取席要録』。世界中に散らばった金融のエリート達が、国際情勢をつぶさに分析・報告していた。

「日本の公債や株式が、日本軍の軍事行動によって下落している」と報告したロンドン(ロンドン支店)からの情報。アメリカに支援を求める中国の財政使節団の動きを詳細に調べたニューヨーク(横浜正金銀行ニューヨーク支店)からの情報。その中に、大蔵省や日銀が、アメリカに密かに純金(金塊)を送ったという情報が頻繁に登場する(横浜正金銀行サンフランシスコ支店へ)。

何故、大量の純金(金塊)を送っていたのか。

日中戦争が始まってから1年が過ぎ、軍事費は増大の一途を辿っていた。軍中央では、日中戦争勃発時現地で指揮を執った板垣征四郎(1885-1948)中将が陸軍大臣東條英機(1884-1948)中将が陸軍次官に就任していた。最大で100万を超す兵力を送っていた陸軍。軍事費は遂に国家予算の7割を超えた。

(日本の国家予算に占める軍事費の割合は、昭和11年(1936年):47.7%、昭和12年(1937年):69%、昭和13年(1938年):76.8%)

日本は戦争に必要な石油や鉄などの戦略物資を海外に依存していた。その獲得に狩り出されていたのが、横浜正金銀行の金融エリート達。この時使われたのが、純金(金塊)だった。

昭和14年(1939年)に横浜正金銀行に入行した寺井弘治氏、89歳。大阪支店で為替業務に携(たずさ)わっていた寺井氏は、或る日、厳重な警備の下、何十もの木箱をアメリカに送るよう言われた。

「何かなぁと聞きますと、大事な金塊をニューヨークに送るので、全くシークレット・マター Secret Matter(極秘事項)だ、と。極秘の極秘で。何で送るんですかと聞いたら、『決済資金が無いから、純金(金塊)で決済するんや』って」

日本からアメリカに密かに送られていた純金(金塊)。日本はこの時期、輸入品を決済する代価・ドルさえ不足していた。アメリカは、石油などの戦略物資に、最大の輸入相手国だった。その戦略物資を輸入する為、政府や日銀が保有している純金(金塊)を切り崩す異常事態に陥(おちい)っていたのである。

一方、アメリカは日中戦争が始まって以降、日本への不信感を強めていた。日本の資金力を密かに分析していたことが明らかになった。アメリ国立公文書館。近年公開が始まったアメリ財務省FRBニューヨーク連邦準備銀行の内部資料。

「こちらが1930年代から40年代の財務省の記録です」(アメリ国立公文書館 女性職員)

日中戦争勃発から半年後の、米財務省の極秘資料である(昭和12年(1937年)12月 米財務省の内部文書)。

「5月半ばに金塊が送られている。日本の銀行に残高は殆んど無い」

純金(金塊)に手をつけざるを得ない日本の厳しい状況(日本銀行の状態や日本の外貨準備量)をつかんでいたアメリカ。戦争を継続させることは難しいと見ていた。

大手企業の財務部門のトップを歴任し、アメリカ海軍大学で戦史を教えていたエドワード・ミラー Edward S. Miller(1930-)氏。経済という新たな視点から、日米開戦の要因を探ってきた。

「誰もが、日本はあと1年か2年で財産を使い果たして破綻するだろう、金融の専門家達は確信していました。日本は支払不能になって、中国との戦争をやめるはずだと。アメリカはそれを待っていたのです」

ところが、そのアメリカも気付かなかった資金の動きが発覚した。

横浜正金銀行ニューヨーク支店。昭和15年(1940年)8月、突如、横浜正金銀行の口座で1200万ドルもの金が動いていたことが分かった(昭和15年(1940年)8月3日のFRBの調査報告書)。FRBは、3週間にわたって密かに調査を続けた。

「日本に外貨を貯める動きがある。それは横浜正金銀行ニューヨーク支店の“隠し口座”にある」(同年8月27日のFRBの調査報告書)

日本がアメリカに送っていた純金(金塊)。売る時の相場によって差額が生じる。その差額は正金銀行ニューヨーク支店の“隠し口座”に貯められていた。その額は2年半で1億4000万ドル。戦争継続に欠かせない石油3年分を賄(まかな)える額だった。正金銀行はアメリカへの報告義務に従わず多額のドルを貯めていたのである。

アメリカは日本が1億ドル以上のカネを持っていることを知ったのです。FRBニューヨーク連邦準備銀行)から僅か数ブロック、目と鼻の先に隠していたのです。それは大きな衝撃でした。日本が中国との戦争を長期間続けることが出来るのですから」(エドワード・ミラー氏)

アメリカは急遽、日本資産の凍結を検討し始めた。その矢先、日本がドイツやイタリアと三国同盟を結び(昭和15年(1940年)9月、日独伊三国同盟成立)、日米関係は悪化。

昭和16年(1941年)1月、横浜正金銀行『頭取席要録』。横浜正金銀行アメリカによる資産凍結を回避する為、第三国への資金の移転を検討していた。

「Banco do Brasil(ブラジル銀行)」

「ニューヨークへ置いておくと、将来戦争になった時に資金が凍結されるんじゃないか、と。もう第三国へ振り替える、付け替えて、そちらへプールしておくと」(元横浜正金銀行・寺井弘治氏)

昭和16年(1941年)7月、日本が蔣 介石への支援ルートを断ち、南方進出の拠点とする為、フランス領だったインドシナ南部に進駐。アメリカは即座に日本資産の凍結に踏み切った(昭和16年(1941年)7月、在未日本資産凍結)。その背景にあったのは、日本が多額のドル資金を隠し持っていたことに対するアメリカの強い不信感だった。

中国での戦争を続ける為の資金調達の動きが、日米開戦へと繋がっていた。

昭和16年(1941年)12月、真珠湾攻撃。日本軍はアメリカとの全面戦争に突入した。欧米から資金や戦略物資を調達し、それによって戦争を賄(まかな)ってきた日本。孤立した日本に、もはや頼れる国は無かった。

内閣総理大臣東條英機大将「我らはあくまで、最後の勝利は祖国日本にあることを確信し、如何なる困難も障害も克服して進まなければなりません」

太平洋戦争。それは軍による更なる「圓」の戦争の始まりだった。日中戦争勃発時に33億円だった戦費。昭和19年(1944年)には740億円にまで達した。国家予算の8割を超える額だった。

(日本の国家予算に占める軍事費の割合は、昭和11年(1936年):47.7%、昭和12年(1937年):69%、昭和13年(1938年):76.8%、昭和14年(1939年):73.4%、昭和15年(1940年):72.5%、昭和16年(1941年):75.7%、昭和17年(1942年):77%、昭和18年(1943年):78.5%、昭和19年(1944年):85.5%)

昭和18年(1943年)3月、東条内閣は“或る決定”を下す。旧大蔵省に残されていた極秘通達。

「大陸の戦線で生じる戦費は、全て現地の銀行に『預ヶ合』で調達させる」

かつて華北朝鮮銀行が編み出した錬金術「預ヶ合」。「戦争をもって戦争を養う」という現地軍のやり方が国家方針となった。華北朝鮮銀行、華中・華南は横浜正金銀行(上海支店)、そして東南アジアは、太平洋戦争開戦後に作られた南方開発金庫が担わされた。

国際協調を掲げてきた横浜正金銀行は、国の方針によって「預ヶ合」に加担することになった。南京で日本が作った傀儡政権の新たな通貨・儲備(ちょび)銀券。日本軍が国民政府と激しく鬩(せめ)ぎ合っていた華中と華南で使われた。正金銀行は、傀儡銀行(中央儲備銀行)と「預ヶ合」契約を結び、膨大な儲備銀券を発行した。戦争中、「預ヶ合」で最も多額の戦費を担わされたのが、正金銀行だった。

これまで「預ヶ合」について記した日本側の資料は残されていなかった。しかし今回、或る陸軍少将の手記の存在が明らかになった。上海に展開した第13軍の経理部長を務めた原田佐次郎(-)陸軍少将。手記には、当時、中国の展開した100万もの兵力をどう維持していたのか、内実が記されていた。

横浜正金銀行を通じ、儲備銀行と相談して、極秘のうちに儲備銀券を軍の手で印刷した。戦時中に中国からどのくらいの戦時物資を調達していたかを暴露したら、その天文学的数字に度肝を抜かれるに違いない」

正金銀行が終戦までに「預ヶ合」によって生み出した金は、2800億円を超えた。日中戦争が始まった時の国家予算の実に60倍だった。

当時、日本の傀儡銀行(中国聯合準備銀行)に出向していた小原正弘氏。「預ヶ合」はあくまでその場しのぎに過ぎず、戦争が終れば全て日本の借金として重く圧(の)し掛かってくると分かっていた。

「いつまでこんなことを続けるのかと思った。増えてゆくのは間違いないんだからね、金額は。このまま続けていったらどうなるんだろう、と。(インタビュア「どこかで破綻しますよね?」)破綻しますよ、いつかは。いつかは破綻します、それは」(元横浜正金銀行行員・小原正弘氏)

占領地の経済はかつてない状況に追い込まれた。儲備(ちょび)銀券を発行すれば発行するほど、その価値は紙切れ同然になっていった。上海では、日中戦争勃発時の3万倍というハイパーインフレ。米など生きていくのに必要な物資さえ買えなくなったと言う。

当時、上海で暮していた93歳の男性。その時の記憶が生々しく残っている。

「日本の傀儡政権がこんな金を作ったことが問題だったんだ。上海では暮らしていけませんよ。1日に物価が3倍になるのですから。どれだけの人が飢えに苦しんだか。20歳の若者も餓死したんだ」

戦争末期には「圓」だけに留まらず、東南アジアから持ち込まれた通貨や「軍用手票軍票)」と呼ばれる軍用通貨、様々な紙幣が日本軍によって中国各地にばら撒かれていった。

昭和20年(1945年)3月、横浜正金銀行『頭取席要録』。正金銀行の中枢にも、現地の混乱は報告されていた。

「通貨の単位はもう既に人々の計算出来る桁数を超え、人々が日本の通貨の受け入れ拒否を起こす可能性がある。インフレは激化し、公衆は貯蓄心を放棄、勤労を嫌悪、道徳は退廃し、秩序が崩壊」

日中戦争から終戦までの8年間、戦費は分かっているだけで7559億円、現在の価値で300兆円を超える。少なくともその4割が「預ヶ合」によって賄(まかな)われていた。現地から収奪した金で戦争が続けられ、更に多くの兵士や民間人の命が奪われていった。それでも軍部は、終戦間際まで「本土決戦」を叫び、経済的な破綻からは目を背け続けた。

戦争を様々な形で支えた国策銀行。朝鮮銀行は軍と共に中国大陸に進出し、「預ヶ合」という錬金術を編み出した。

「日本が大国を相手に戦争をする、そんなことは不可能だったと思いますね。この仕組み(預ヶ合)があったと言うか、この仕組みを作ったからあれだけ戦争を継続出来た、と」(元日本債権信用銀行常務・多田井喜生氏)

横浜正金銀行は、経済原理に反すると知りながら戦争に加担していった。

「北支(ほくし)では聯合準備銀行、蒙彊(もうきょう)では蒙彊銀行、中支(ちゅうし)では儲備銀行。あんなもの拵(こしら)えてやったのは、軍に協力したということの一言に尽きますね・・・・。ああいうことを軍が言い出して、それにやっぱり流れに乗ってやっていくということは、やはり勇気が、今思えば勇気が無かったということでしょうねぇ。残念だけど、事実はそうだったと思いますよ」(元横浜正金銀行行員・小原正弘氏)

終戦から66年。日本の「圓」の戦争は人々の記憶から忘れ去られた。しかし国の一般会計には、現在(いま)も「預ヶ合」による戦費の一部が積み残されている。

「旧臨時軍事費借入金 414億円(41,421,961,000円)」

戦費調達を担った銀行は消滅、借入金はそのままになっている。消すことの出来ない日本の戦争の刻印である。