吉田清治証言


吉田清治証言
 

 昨日は吉田清治の『私の戦争犯罪――朝鮮人強制連行』(三一書房)、今日は同じく吉田清治の『朝鮮人慰安婦と日本人――元下関労報動員部長の手記』(新人物往来社)を読んだ。言うまでもなく、吉田清治とは、昨年8月5日、朝日新聞の「従軍慰安婦問題検証記事」によって、その証言が「虚偽」と断定され、安倍晋三はじめ、産経、文春、新潮など右翼系メディアによって「詐欺師」呼ばわりされてきた人物である。実は、昨年の朝日の検証記事をきっかけとして政界・マスメディア総がかりの朝日バッシングが起こったとき、たった一人の「虚偽証言」報道を元に、慰安婦問題自体が朝日新聞のでっち上げた「虚構」であったと言わんばかりの歴史修正主義の嵐に、私は唖然呆然愕然としてしまったが、朝日が「吉田証言」を「虚偽」と判断したこと自体には、特に疑問は感じなかった。それ以前から、従軍慰安婦問題の真面目な研究者たちが、吉田証言の信憑性に疑問を呈していたことを知っていたからだ。

 ところが先月、今田真人の『吉田証言は生きている』(共栄書房)をいう本を読んで、その判断を大いに反省させられることになった。今田氏が詳しく検証しているが、改めて朝日新聞の「検証記事」を読んでみると、吉田証言を「虚偽」と断定できるような根拠はどこにも示されていなかったのである。その検証記事から言えることは、吉田証言を裏づける証拠は発見できなかった、ということだけであり、それは1997年3月31日に朝日新聞が掲載した特集記事における結論と何ら変わるものではない、ということだ。1997年3月の特集記事と昨年8月の検証記事との間で違いがあるとすれば、証言者である吉田が2000年7月に亡くなっており、昨年の段階では、もはや「死人に口なし」で、吉田から名誉毀損訴訟を起こされる心配がなかったということである。現に、97年の特集記事を作成する段階では、「虚偽」と断定した場合、吉田から名誉毀損訴訟を起こされる可能性を心配しており、昨年の検証記事を企画した際には、吉田の生存の有無を真っ先に確認しているのである。言うまでもないことながら、「吉田証言を裏づける証拠が発見できなかった」ということと、「吉田証言が虚偽である」ということの間には大きな裂け目がある。仮に「無実であるという証拠が発見できなかった(無実の証明ができなかった)」ということをもって「真犯人であり有罪である」ということにされるとしたら、誰しも、いつ無実の罪で有罪にされるかもしれず、オチオチ安心して眠ることもできないだろう。

 しかし、今日話したいのは、今田氏の著作のことではない。これについても述べたいことはたくさんあるが、それはまた後日を期そう。今日の話題は吉田の2冊の著書についてである。最初の著作は『朝鮮人慰安婦と日本人』で、1977年3月の出版であり、2冊目の『私の戦争犯罪』は1983年7月に出版されている。朝日バッシングと絡んで吉田の著作が「詐欺師」扱いされるのは、済州島での「慰安婦」強制連行を記した後者の方である。
 私が実際に読んだ感想としては、仮にこれらが吉田の体験に基づく事実を記したものでないとしたならば、吉田は、大作家のみが持ちうるであろう稀有な想像力と創作能力とを有していたことになる、ということだ。吉田は両方の著書で断っているとおり、被害者・加害者双方のプライバシーを保護するために、登場人物にはすべて仮名を用いており、また、今田氏のインタビューによれば、同じ理由から、地名に関しても、フィクションを交えた部分があると語っているが、それを除けば、基本的には自分の体験したことを、思い出せる範囲で正確に記述しているのではないか、という感想を抱いた。

 特に胸をつかれたのは最初の著書である。この本は、日本が中国東北地方に傀儡国家「満州国」を作って5年目の1937年の春、著者が東京の大学を出て満州国国務院の官吏養成所に入ったところから始まるが、そこで最初に友情を結んだのが、朝鮮人の金永達であった。東京生まれ東京育ちで著者と同じ大学の一年後輩であった金永達は、植民地出身者として当然、日本国籍であったが、「満州国」における差別政策により、日本人待遇から満人待遇に変更され、満系官吏養成所への異動を命じられる。それを気の毒に思った吉田は、金に「自分の養子になって日本に帰化する」ことを勧める。「日本人になったら、とくをするかもしれないが、朝鮮に生まれた者は個性をなくしたくないんだ」とためらう金に、吉田は「戸籍を変えても、きみは個性を変える必要はない」「必要がなくなったら、いつでも戸籍を抜けばいいじゃないか」と言い、結局は金もこれを受け入れる。こうした状況で朝鮮人の友人に帰化を勧めたことの是非を一概に論じることは難しいが、少なくともこの時の吉田の提案の動機が純粋な同情心と友情とに基づいていたことだけは間違いあるまい。そして養子縁組後も二人は最も親しい友人としての付き合いを続けていたが、「日本人」になった金永達こと吉田永達には徴兵検査を受ける義務があることを彼らはすっかり失念していた。そのことを憲兵隊から叱責され、急遽徴兵検査を受けた永達は、誤って「難聴」との誤診により「第一乙」の判定を受け、現役入隊を免れた。その後、永達はチチハルの日本人小学校の教員をしていた日本人女性と知り合って意気投合し、その年の12月に結婚式を挙げることになる。吉田が我がことにように喜んだのも束の間、結婚式の2週間後に永達は召集令状を受け取り、翌1月に小倉歩兵第14連隊に入隊することになる。自分が永達を養子にして日本人にしたばかりに永達が徴兵されることになったと、吉田は激しい自責の念に捉われるが、永達は冷静に自分の運命を受け入れる。そして永達が出征して8か月後、彼の妻と吉田は永達の戦死の報を受け取る。満洲間島省(朝鮮との国境に近く、朝鮮人が多い地域)の独立守備隊の任務についていた永達は、9月1日の関東大震災の記念日に襲撃してきた朝鮮人匪賊の銃撃によって戦死した2名の中の一人となったのである。永達の家族は、1923年9月1日に起きた関東大震災のとき、自警団による朝鮮人狩りを逃れて麻生三連隊に保護されたものの、父親は他の男性たちとともに、「不逞鮮人」として銃殺されてしまい、それを見ていた永達の母親は永達の手を握ったまま卒倒してしまった。その後、母親は精神に異常をきたし、親戚の者とともに朝鮮に帰るが、大邱駅に着いた時、線路に飛び降りて列車に轢かれて死んだ。それから15年後の9月1日、永達は朝鮮人「匪賊」により、関東大震災時の日本人による朝鮮人虐殺への復讐として殺されたのである。

 永達の戦死により、満州国での官吏生活に意欲を失った吉田は、1939年1月から陸軍航空輸送隊の嘱託となり、翌40年には中華航空株式会社の上海支社営業所主任となるが、社会主義者で抗日運動家の朝鮮人を航空機に載せた容疑で軍法会議にかけられ、「懲役2年」の刑を宣告され、長崎の諫早刑務所で服役することになる。
 1942年、服役を終えて出所したあと、吉田は郷里の山口県に戻り、同郷の先輩の世話で山口県労務報国会下関支部に就職し、動員部長に任命されるが、それが、彼が朝鮮人の強制徴用に携わる原因となるのである。最初は朝鮮半島南部での朝鮮人男性の強制徴用に携わっていた吉田であるが、1944年になると「朝鮮人女子挺身隊」の名目で、朝鮮人慰安婦の動員にまで先頭に立って携わることになるのである。本書で描かれているのは、山口県在住の朝鮮人女性に対し、「対馬陸軍病院の雑役として働けばいい金になる」と騙して募集する手口である。
 元々は、朝鮮人の同僚に対して篤い友情と義侠心を持っていた著者が、当時の日本人の多くが共有していた帝国主義的=植民地主義的差別思想を背景とするとはいえ、また、たまたま就いた仕事の職務とはいえ、ここまで非人間的所業に堕ちてしまうことに戦慄を感じざるを得ない。その意味では貴重な記録である。
 最後に著者は、あとがきのなかで、「朝鮮民族に、私の非人間的な心と行為を恥じて、謹んで謝罪いたします。(中略)戦前戦後を通じて、私は民族的悪徳をもって一生を送ってきたが、老境にいたって人類共存を願うようになり、人間のすべての「差別」に反対するようになった。/日本の青少年よ、願わくは、私のように老後になって、民族的慚愧の涙にむせぶなかれ」と記している。
 安倍晋三のような、吉田証言の否定論者は、吉田の行為・言動を「売名行為」のための虚言と非難しているが、実際の彼は、著作公刊以後、右翼の脅迫によって生命の危険にもさらされるなかで、しかもほとんど孤立無援の状況の中で「証言」を続けていたのであり、とても「売名」目的といった気軽で利己的な理由によってなしうる行為ではなかったであろう、ということだけは少なくとも言えるのではないかと思う。