日中戦争の時、日本軍は中国大陸にコレラ菌などの細菌を散布したという事実が有ったのでしょうか。

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1939年の夏ノモンハン事件のとき、ソ連が水源としていたハルハ河支流のホルスタイン河に八月二十日過ぎに胃腸系の病気を起こす病原菌(チフス菌、コレラ菌、パラチフス菌)をまくことを提案して実行された。1940年秋ごろには寧波作戦でペストノミを上空から散布しました。寧波市を占領したのは、翌年1941年の春です。この年の1941年、常徳作戦でも常徳の都市に対して上空から散布した。翌年の1942年浙韓(ズエガン)作戦でコレラ菌での上空から散布したが、誤って地域に踏み込んでしまった日本軍が一万人以上にのぼるコレラ患者が発生した。この失敗により考え出されたのが、病原体を爆弾や砲弾に詰め発射することであった。そこで人体実験を通して開発が進められ、1944年末にペスト菌の細菌爆弾と炭疽菌の細菌爆弾が完成します。しかしこの石井式細菌爆弾を使用しても戦況を変えることができなかったから、敗戦後に避難、糾弾されるようなことは避けよういう判断によって使用されなかった。
ところで、中国戦線で、通称黄筒(きいとう)、黄弾(きだん)と呼ばれていた致死性の毒ガス、イペリットガスの使用は、1939年に翁英作戦で最初に使用され、その後各地で使われたのです。毒ガスの使用は、決して一部の軍人や前線部隊の思い付きではなく、研究・開発・製造・教育訓練・実戦使用という一貫した体系の中で実施さていた。しかも大本営の「臨参命」「大陸命」という命令系統に基づいて実行されていました。