明治維新は、幕末の外圧により、自発的に勃興した一般有志者による薩長討幕派の政権奪取である。そうして明治政府は、成立当初から反政府運動に直面した。新政府が氏族反乱を鎮圧したあとは、自由民権運動が台頭し、政府は明治憲法を発布された。

そして、学校教育、軍隊教育、やさまざまな情報統制・操作によって天皇を「現人神」として敬う天皇をもって「心の支配」を国民に強く浸透しさせた。学校教育では、「教育勅語」に代表される天皇制と修身・国史から国語読本や音楽にいたるまで巧みに系統化された軍国主義教材によって、天皇あっての日本、忠孝こそが最高の美徳であるとの価値観が子供たちに植え付けられていた。軍隊教育では、新兵たちに「軍人勅論」の暗記を強要し、「死は鴻毛(〔鴻(オオトリ)の羽の意〕 きわめて軽いもののたとえ)よりも軽しと覚悟せよ」と天皇のためにいさぎよく死ぬことの「尊さ」が叩きこまれた。また、情報統制・操作は、内務省を中心に強大な警察権力によって日常的に展開され、天皇制を批判するマトモな言論は一般マスコミからはほぼ完全にしめだされた。天皇に関する情報が、権力者たちによって一元的に管理されることによって天皇制を無知・無精神・無教養の人々におしつけていった。無知・無精神・無教養の人々の多くは、古新聞ひとつ処分するにも、「不敬」にならしめないように天皇・皇室の写真が印刷されていないか気を配らなければならないほど、日常生活の隅々まで道徳的にしばられていたのである。
だが、これらの「心の支配」の浸透装置を用いても、現実には第一次世界大戦以後の大衆社会化の進展と社会運動の広がりを前に、支配のタガがは緩みがちであった。天皇制による支配のタガが緩み始めたのには、大正天皇が、重い病気のために国民を強力に引きつける求心力に欠け、天皇の奇行に関するさまざまな噂話が一般にも流布して天皇家の権威が著しく低下したことにもひとつの原因があった。また、元老として大正天皇を支えた桂太郎井上肇大山巌山県有朋松方正義といった明治の元勲たちがあいついで没していったことも、明治以来の支配秩序が緩む要因でああったといえる。帝王教育を終えるか終えないかの年若い皇太子・裕仁親王1920年以降政務.・軍事の全面に立たざるを得なくなったことは、天皇制にとっては大きな危機であったとも言える。また、ほかならぬ皇太子妃をめぐる指導者の内部が「宮中其重大事件」として伝えられたことも天皇家の威信低下に拍車をかけた。
時の指導者たち原敬首相と元老・西園寺公房公爵は、この天皇の権威低下、危機を皇太子の摂政就任によって打開しようとした。そして、皇太子を摂政にするまえに、外遊をさせて裕仁親王に大国の君主としての更なる自覚と見識をつけさせようと考えた。この外遊は、激動するヨーロッパで実物教育として見聞を積み、大戦後における世界強国の君主のあり方を皇太子に自覚させることもめざされていた。天皇や皇太子の側近の中には、外遊を機会に、皇太子の欠点が矯正されるのではないかとの期待もあったようである。皇太子の欠点とは、人前で落ちつかないこと、性格が内気で、物事を徹底的に追求しようという気分に欠けていることであった。
昭和天皇自身、この外遊の成果をイギリスにおいて「立憲君主制の君主はどうなくちゃならないか」をジョージ5世から直接教えられたことである、とのちに語っている。(天皇が言う「立憲君主」とは、本来この意味だったであろう)しかし、帰国直後の供奉長・珍田捨己の報告を聞いた宮内大臣牧野伸顕は、あらためて「後性質中御落附の足らざる事、御研究心の薄き事は御欠点なるが如し」と記しているところをみると、表面上、皇太子は外遊中にはあまり変化しなかったようである。だが、帰国後、皇太子は積極的に政務・軍務をこなすようになったのである。