明治33年に、勅命である皇室令として制定された「皇族身位令」八条は「皇太子皇太孫ハ満七年ニ達シタル後大勲位ニ叙シ菊花大綬賞を賜フ」と定め、十七条は「皇太子皇太孫ハ満十年ニ達シタル後陸軍及海軍ノ武官ニ任ス」と定めた。
これにしたがって昭和天皇は満11歳で陸海軍少尉となったので、満11歳になった明仁皇太子を、陸海軍少尉に任命しうるのが当然であった。
にもかかわらず、昭和天皇が許可しなかったのは、軍の武官・将校にすれば、予想された敗戦後、皇太子も戦争責任を追及され処刑、隔離・監禁されるおそれもあったからである。息子を思う親の真情というよりは、自分は処刑や退位を余儀なくされても、国体護符のために「種を残す」という政治的配慮からいえるだろう。天皇存続のために「種を残す」ためというのは、敗戦時における天皇から皇太子にあてた手紙にも示されている。