アタマ・タランチノ さん>

さて、例だよ。

1921(大正10)年、日本陸軍が演習という名目で所沢〜長春間の長距離飛行演習を計画した。飛行経路は所沢〜太刀洗京城長春。これは陸軍航空のみならず、日本の飛行機が外国に飛行しようというはじめての計画だった。

ところが当時、中国は外国飛行機の入境に対して厳しい制約を課していたんだ。

そこで外交ルートを通じて折衝を行ったところ、中華民国外交部は次の条件を出して来た。

(1)入境時における検査の実施
(2)写真機、無線機、並びに郵便物の携行禁止
(3)人口稠密な地点で低空飛行を行って人民の生命財産に危険を発生させないこと
(4)中国側の指定する地点で離着陸すること

このうち1番目の条件に対して、日本国内で反発が起きた。いくら演習とはいっても、軍用機だ。それを外国官憲の検査に委ねるというのはいかがなものかというわけ。外務省は、外務大臣内田康哉の名で北京の小幡公使に対して「我方ノ到底忍ヒ難キ所ナリ」とまで伝えたんだ。

けれど公使は、中国当局者の言として、イタリアの飛行機が飛んできたときも「政府ハ今回日本ニ対スルノト略仝様ノ条件ヲ附シ現ニ広東税関ニ於テ該飛行機ヲ検査シ」、飛行経路も多少の修正を加え、指定した経路を飛行させた。だが今回は好意を以って経路には何らの変更も加えずに承諾する次第だと返答してきた。つまり、条件はゆるいんだよということだね。

折れたのは、日本側だ。しかも入国時の検査は、中国側の安東には適切な着陸地がなかったから、日本側(朝鮮)の新義州に中国官憲が出張して行うことにもなった。

さて、準備が着々と進む中、どこから聞きつけてきたのか、大連に本社を置く遼東新報社の東京支社が書状を託送してくれと申し出てきた。当時、飛行機が飛ぶといっては書状を運んでもらうのが流行っていたんだ。ちなみに書状の内容は、安東、奉天長春の各支局宛の通信文と各界著名人からの遼東新報社社長宛の賀詞、そして在満各新聞社への賀詞。

けれど中華民国外交部から示された規則の中には「禁制物、写真器械、無線電機及ヒ郵便物ヲ携帯スルヲ得ス」という条項がある。陸軍は、これを盾に遼東新報社の依頼を断ったんだ。この時の陸軍は、中国側の目を誤魔化すようなことをしなかったんだね。

こうして、1921(大正10)年9月27日から10月5日にかけての飛行が行われた。これは、日本人による日本で最初の海外飛行だ。もちろん新義州では、約束どおり中国官憲による検査も受けている。

というわけで、中国側は、名実ともに自分達の方針を貫き通し、日本側はそれに従って飛行を実施した。そうそう、太刀洗離陸前には、現地から陸軍大臣山梨半造宛に報告が届いている。蛇足ながらこれも掲げておこうね。

「飛行ノ設備ハ支那側ノ多大ナル援助ニ依リ意外ニ進捗シ最近数日間降雨アリタルニモ不拘九月二十二日大体完了セリ」

だいたいさ、北京政府(北洋派)のうち一つが奉天派なんだよ。満洲は、奉天派にとって根城であり利益の源泉でもあったんだ。そんな満洲を、北京政府が手放そうとするわけないじゃないか。



1912年3月10日、袁世凱清朝外務部公署で宣誓して臨時大総統に就任した。北京政府の始まりだ。そして4月2日、臨時参議院は臨時政府を北京に移すことを決定する。ここに南京臨時政府は三ヶ月ほどで終了し、北京政府の時代に入る。

続いて、終り。第二次北伐の大勢が決したことから、北京政府の主導的地位にあった張作霖は1928年6月3日に北京を退去する。国民党軍の北京入城は6月8日。北京から退いた張作霖は6月4日、日本軍によって奉天付近で爆殺された(皇姑屯事件)。そして息子の張学良が蒋介石の勧告を容れて12月29日に易幟を断行、東三省にも青天白日旗が翻ったことで名実ともに北京政府と北洋軍閥の時代は終結し、南京国民政府の時代となる。