gdhb7215 さん>田中内閣の外交面をどう評価する? 
 ことに幣原外交の路線を変更して、日本の満蒙の「特殊権益」を認めさせるというものだが。


外交面では田中は満蒙に関しては張作霖と、中国本土に関しては蒋介石をそれぞれの相手に交渉して権益権を委任の維持と拡大を図ろうとしたが、張の爆破事件により、田中の大陸政策は崩壊した。「親の心、子知らず」と言ったというが、能天気だ。

この内閣の末期、天皇即位の際の叙勲に関係する贈収賄の売勲事件、私鉄買収をめぐる前鉄道大臣小川平吉を中心とする政友系の疑獄と前文相小橋の民政系の疑獄事件、朝鮮の利権にまつわる前総督山梨半造大将の汚職事件などなどその数は多数にのぼり、関係する疑獄事件が続々と噴出した。もちろんこれらは氷山の一角で、政府資金を食いものにしていたのである。

田中は事件後河本らの犯行と知り、軍法会議を開き軍記を振粛する方針を固め、この旨を上奏した。しかし、閣僚や陸軍当局も絶対反対で田中を支持する有力は元老西園寺公一人ぐらいの状態で、公表は絶対不可の旨強く論難され、態度を変えるに至ったのである。田中は行政処分とする旨を上奏したが、新天皇から前の上奏と矛盾すると詰問され直ちに辞職を固めた。

三ヶ月後、自分の部下の巨額な疑獄の渦のなかで、狭心症により死んだのであるが、
死後の財産は借金を山のように残して、邸宅も抵当に入っていたという。
田中は金をこしらえる天才をもって政界腐敗せしめたが、田中に金をねだった党員はおのおのその分に応じて責任があるのだろうと思う。
gdhb7215さん> 当時の大蔵や外務官僚は実務家だからね。実行できる政策を立てなければならない。実行できない空論は、存在しないのと同じ。
 当時の日本の経済は、問題を先送りしておけるほど余裕は無かった。あなただって、その立場だったら、ベストではないが、実行できるものの中でよりマシなものを選ぶだろ。

歴史というものは、変えられない。それを認識した上で、そこから教訓を汲み取ることしかできない。その汲み取り方は、その人の経験の深さに比例し、その教訓が人柄に表れる。

 
gdhb7215さん>というなら、この時期の、例えばアメリカの対支政策を総括してみてくれますか。
どんな条約を結んだのか、トラブルはあったのか、あったとしてどんな風に解決したのか。


日本とアメリカの対応の違いを述べたんだよ!


gdhb7215さん>それを論じれば、日本のとるべきだった道も出てくるでしょう。ここは外しては、語れないよ。


現実路線として、国際協調主義と軍縮縮小を基調として、世界列強と提携しつつ資本の投下や商品輸出などの平和な方法での日本の拡大にとどめるべきだったのでしょう。


gdhb7215さん> (鈍感だったのは日本とアメリカだ)


いくら鈍感でも不戦条約や9カ国条約に違反したことは弁解の余地はないと思う。


gdhb7215さん> 幣原外交は、この精神に愚直なほど忠実だった。1926年や27年の時の態度でも判るだろう。イギリスの出兵要求にさえ断固拒否している。この点、どう思う?
 国内的に見ても幣原外交は、政界、財界、軍部、国民からも「軟弱外交」と非難され、閣僚の宇垣陸相は若槻首相に、対支政策の積極化を要求した。それでも外交方針を断固変えなかった。


幣原の言動を見るに、平和外交と程遠い、中国への既得意識や特権意識に立脚するものであることにはかわりないと思っているがね!


gdhb7215さん>それはそうと、浜口内閣の罪をあげるなら経済政策の失敗だ。1929年7月頃は世界は好況で、ニューヨーク株式も高騰していた。その中で金解禁を決めたのはいいとしても。10月のニューヨーク株の大暴落とその後の不況にもかかわらず金解禁を続けたことだな。どう思う?

「経済政策の失敗」というより、それ以前の問題だと思っている。

政策の失敗は手直しすればよいが、政界が腐食していては直しようがないと思う。


gdhb7215さん> こんなことを言っていた連中が、満州事変や日華事変を起こしていった。大不況で生活苦に喘いだ国民が、この連中のヨタ話に乗せられて、大陸への一層の勢力伸長を叫んだわけだ。


日本の国民大衆は満州事変や日華事変を起った真相を知ったのは戦後ですよ!

当時は戦争・軍・植民地支配についての真実の報道や批判はきびしく取り締まれ、きわめて重要な事実や思想の自由な伝達が不可能な社会では国民意識の健全な成長は望めない。

大衆とは報道の困難な条件下では、おのずから権力の志向する軍国主義の方向にのみ視野と思索とを限定されるを免れなかったのである。

そこで歴史の教訓とは、言論の自由や、表現の自由は、できるだけ制限せんようにしないとダメよ、ということになる。