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gdhb7215さん> もちろん、極論をなす『評論家』はいつの時代にもいるさ。今の日本でも、日本の将来像をみれば、無数の提案がある。
おいおい、そんなに簡単に考えちゃいかん。
今とは違い、昔は命がけなんだよ!
gdhb7215さん>満蒙を経営して、移民と資源の供給地にするという政策は、対支外交がうまく行けば十分に魅力的なプランだ。
あほらしいね!
日本国内でも国民は一銭五厘の臣民であったように、傀儡日本満州国が成功しても結局は一銭五厘の日本臣民よりも下等に扱われるのは身に見えていることで、人の不幸を増やすプランだ。
そもそも、力で満州を奪っても、安全を確保にするには、華北・内蒙古をも支配しなければならず、結局は中国との戦争を完遂しなければならない。一方ではソ連を撃破して北からの脅威を除く必要があり、結局は目的の無い不毛な戦いを継続しなければならん。
石原莞爾は「大局的判断」を誤ったと述べているが、そんなことではない。
早い話、日本人の無知からくるのだろう。
その由来は明治維新以来、世界と自国の歴史的・社会的真相を認識する能力を幼年の時期から奪い去る教育、その成長を阻害する治安維持法や真の科学的知識の形成を許さない学問の自由の剥奪にあったと思う。
もともと犯罪的行為をもって戦争を始めたものを国民に真実を知らせるわけにもいかないからね。また、自由な批判を許すわけもいかなかったのは当然であるが、そのために戦争を抑制する機能ばかりでなく、到底勝算になく突入し、戦争終結を主張する自由がなかったために、いたずらに無益の犠牲を続出させる結果となった。
要するに、民主主義の決如が戦争の原因ともいえる。
つまり、日本が悲劇的な戦争への途に突入したのは、治安立法と公教育による国民思想の統制であったということは、結局日本人は何かが欠乏していたとも言える。
gdhb7215さん>国益を第一に、政策運営するは、当たり前。
国益とはなんですか?
領土ですか?
資源ですか?
gdhb7215> 平和貿易を押し進めたらよかったんだろ?一体どうすれば、誰と話をすればよかったんだね?いくら高い理想を掲げても、実行不可能な空論など、全く無意味。
もう一度言うよ、そ ん な こ と、で き る の か?
実際、投資した分は儲かったかね?高くついたんじゃないかい。空論のほうが現実的なものもある。
gdhb7215さん>どんな条約を結んでいたんだ?そして、彼らは実際、対中関係はそんなに良かったのか?現実を見なけりゃダメだよ。
現実を見なきゃワシのような意見は出んのじゃよ!
通商就航条約というものがあって、鉄クズや石油などを貿易していたんじゃないかい。
日本開国のおりも、脅かしやごまかしはあったが、両者の話し合いで通商が決まったんだよ。
日本みたな押し込み強盗のようなものと違うんだよ!
経済についてはアタマ・タランチノさんが詳しいから聞きてみたらよろしかろうと思う。
gdhb7215>平和的解決という言葉があったとは始めて聞いたよ?
あったんだよ。というか、戦前の外交史を語る時、必ずでてくることだ。大正13年の加藤高明内閣から大正15年の若槻内閣のときの外相幣原喜重郎が進めた外交だ。ワシントン体制の遵守、平和主義、国際協調主義、中国の内政に対する不干渉政策などというキーワードで語られる。
「平和」という言葉があるのは知っていたが、当時その意味を理解できたのか、ということを聞きたかっただけです。
昭和とは「百姓昭明、協和万邦」の意味で 国民の平和と世界の共存繁栄を願ったものですが、実際なまったく違ったからね。
gdhb7215さん>国際的にも、国民政府にも評判はよく、ただ当時の国内強硬派にはひどく評判が悪く、若槻内閣の倒閣の一因にもなった。
この幣原外交は、どう評価するね?
この間、政府が平和的解決を努力しなかったとでも?田中内閣は失敗したが、幣原外交は相当な成果を挙げ、蒋介石の国民政府との関係回復に成功していた。
たしかに、浜口内閣で幣原は平和外交というよりも国際協調外交で、国際感覚もあったと思うが、浜口内閣では勲章疑獄や東京市議会疑獄など大掛かりな汚職事件が続出して、まさに底なしの疑獄時代を呈していた。それに財閥の力はふくれるばかりで失業者を無視し、政界全体が汚職や利害の氾濫する塵埃の場と化していたのである。まさに内憂外患のための国家革新断行が生まれる必然性はあったと思う。
政界が腐食するとテロや不法行為が生まれ、日本全体が不幸になるといことかも。
田中には政策はなかった。口でこそ国家のためと経綸を行わんといっていたが、実は政策はどちらでもとかった。張作霖でも蒋介石でもよかった。金解禁はしてもしなくてもよかった。彼の目的は堂々、天下の権を握っているということにあった。
田中は政党にお金を要求され、1千万以上の金を差しだし総裁なったと言われている。
6年前、清浦内閣が成立するまでは、総理大臣は元老の意思で推薦された。しかるに清浦内閣が以来、加藤内閣、若槻内閣、田中内閣の成立したのは、形式的には元老の推薦によってであるが、実質において政党の総裁たるものがところてん式に内閣組織の任に押さ出されるような形になった。それは憲政常道論による政治の進歩であることに異論はないが、そこに一利一害が伴った。政党の総裁になれれば総理大臣になれる。政党も総裁を金で売る、買うものもおおくなる。
そして政党を選ぶのは政党であるがゆえに、総理大臣なった後に本部の経費とか総選挙の運動費とかいう形において支払われる。
この頃から政党総裁には金がつきものになった。
政界が腐食すると日本全体が不幸になる。
gdhb7215さん>日本みたな押し込み強盗のようなものと違うんだよ!
加藤>これは誰の土地で、幾らなんてぐずぐずしていると立ち遅れになってしまう
田中>泥棒みたいですなぁ(笑)
加藤>戦争は大泥棒で、人殺しだから
田中>泥棒の親方みたいなものですなぁ(笑)