安藤正樂(あんどうせいがく)

愛媛県土居町出身の安藤正楽は、明治四十年、日露戦争後、村民にこわれて日露戦争での戦死者のため、日露戦後記念碑の碑文を書いた。碑文の中に、戦争をやめさすためには「忠君愛国の四字を滅すべし」と書いたため、官憲によって碑面が削られた。 
 碑と墓は、愛媛県宇摩郡土居町大字藤原にあり、撰文と筆著はいずれも安藤正楽である。碑は高さ二・一○米、幅一・一○米の自然石。土台石の高さ一・三米である。上橋の「日露戦役記念碑」の横文字は風雪にさらされてはいるが残っている。然しその下の碑文は削られていて、それをさぐってゆくと僅かに字の痕跡を見ることは出来る
が一字も読むことは出来ない。
 裏面には世話人五人と石工二人の名前が刻まれてはいるが建立年月日は書いていない。ところが最近その碑文の写しがあらわれた。無格杜の八坂神社の宮司もかねている隣部落の一宮神社の宮司合田厳穂氏の神事のための書類箱の底に秘められていたのである。写した人は厳穂氏の父合田亀丸であった。亀丸は宮司で小学校の先生のちに村長にもなった人である。

 その文章はつぎの通りである。

  日露戦役記念碑

日露戦争から凱旋した藤原の軍人諸氏が予に其紀念碑の文を請はれた 其人達は越智大吉越智和田一 越智大三郎 大田亀太郎 大田六助 大田梅三郎 大田春市 大原福太郎 加地幾平 加地弥五郎 加地市太郎 加地定吉 加地浅太郎 加地与吉 高石菊太 高石小三郎 高石市郎 高橋庄作 村上鬼子松 村上佳吉 村上嘉市 村上梅吉 松岡源太 藤田兼太郎 近藤勇吉 近藤保太郎 近藤巻助 安部武平 安部梅太郎 安部
福助 青木安吉 岸鶴市 三木鹿太郎 三木久吉 三木鶴吉 三木頼助 三木万吉の三十七氏で八人は負傷し 外近藤嶺吉 高石音吉の二氏は討死されたのである鳴呼此部落僅に百七十戸それに此数多の人が出て征ったか 今更当時を回想し戦慄せさるを得ぬ 由来戦争の非は世界の公論であるのに 事実は之に反し戦は亦明日にも始まるのである 吁之を如何すればよいか 他なし 世界人類の為に忠君愛国の四字を滅するにありと予
は思ふ 諸氏は抑此役に於て如何の感を得て帰ったのであらふ
 明治四十年三月
          安藤正楽題選書

安藤正楽。慶応二年愛媛県宇摩郡土居町に生まれ、明治二十五年明治法律学校を卒業した後、郡会議員、県会議員を務めた。「県会は猿芝居だ」と言い捨てると、四十歳を過ぎて歴史学や考古学に没頭し、「日本古代史紀年論」「石器時代図文綜観」など十五編の論文を草している。美術文芸に独自の世界をひらき、絵画、短歌、俳句、漢詩篆刻、焼き物など、相当数を残した。学問好きで非戦論を唱え、芸術を愛し、激しくも自由奔
放な86歳の生涯を送った。

彼は明治30年代、瀬戸の小島に据えられた砲台を遠望して「平和の神よ見そなはせ我が日本は叛逆の国」と歌い、

昭和20年8月終戦には「月涼し腹は得切らぬ狸ども」と俳句を詠んだ。

民人になした深く重い加害に対する責任を負うべき者に対してのものである。
暴力的な国家への抵抗は、強靭な精神、思想、信仰に支えられた少数者しか選択できなかったのである。しかし、歴史の流れを変えられる力を持つまでに至らなかったが、当時において、堂々とその精神があったことは後に続く我々にとって希望の源となり、ホットした気持ちになれる。
長きにわたって多くの民人を苦難の世界へと連れ去った者たちに対しての怒りの句だと思う。


「月涼し」は夏の季語で、「狸」とは、狭義では「上官」で、大元帥まで含むかもしれませんね。降伏の報が伝わると、蓄積されていた軍事物資を隠匿し私して、戦後もその経済力をもって戦中、戦後を通じて民人に対して道義を説く為政者のことかもね。

「得切らぬ」は「えきらぬ」で意味は「いくじなし」「ためらう」というような感じですか。