高松塚

奈良県高市郡明日香村に高松塚古墳があります。この古墳は江戸時代の文献には、頂上に一本高い松がはえている高松塚を、文武天皇陵であると記録している。その後いつの間にか、文武天皇陵は高松塚から200メートルはど離れた古墳が御陵に指定され、 しかし天皇陵の発掘が禁止されている現在では江戸時代に天皇陵とまで考えられたこともある古墳であるで、高松塚は、古墳としては、飛鳥時代を知る重要なものの一つです。朝鮮の修山里壁画古墳の女人像も長い裳裾で高松塚古墳によく似た女人像が描かれています。
高松塚の古墳は、一時文武天皇陵とされていた伝承などから考えて、天皇か、それに次ぐ身分の人の墓であろうと思う。その古墳の様式は朝鮮半島のそれと同じ円形頃、そして百済と高句題に見られる四神図、女人の衣裳などから、高松塚の被葬者は、朝鮮半島からの渡来人であると考えられる。被葬者が日本古来の人間なら、人情からしてもやはり在来の様式に従って葬り、異国と考えられる韓国の様式の墳墓を作ることは考えられないから、天皇かそれに次ぐ身分である高松塚の被葬者は、韓国から渡来した人物か、もしくはそれが当時支配していた日本人そのものであったろうと思う。
また、河内地方に玉手山古墳には高句麗の風俗をしのばせる線刻壁画があります。鳥の長い羽根飾りをつけ、幅の広いズボンをほいた姿、王冠をかぶった人物のⅤネックの襟元、長い袖、玉手山古墳の風俗は、朝鮮、特に高句麗の壁画との類似点を数多く持っています。玉手山古墳に描かれた風俗は、埴輪や土器などに見られる古代の日本人よりは、海を渡った朝鮮半島のそれと似ている。この古墳がある河内地方は古墳の密集地で下記のように女人をよんだ万葉の歌もこの地方のものです。蘇我馬子の墳墓と伝えられているのもこの地方にあります。大和朝廷で勢力をふるった豪族蘇我氏はこの地方の出身です。また日本書紀雄略天皇9年の条に、飛鳥戸郡(あすかべのこうりの)人、田辺史伯孫(たなべのふひとはくそん)という人物が登場しますが、この地にはこの飛鳥戸一族の祖先である百済の混伎王を祀る飛鳥戸神社があります。この一族は河内飛鳥一帯に勢力張り百済からの渡来人です。高松塚をはじめ、文武天皇陵、欽明天皇陵、天武持続合葬陵などは、実はこの渡来人の里、檜前に造られている。

万葉集

立ちて思ひ 居てもそ思ふ 紅の赤裳(もすそ)裾引き去(い)にし姿を

立っても座っても、紅の赤い裳のすそを引いて去っていったあなたの姿を思っています

しなてる 片足羽川(かたしはがわ)の さ丹塗(にぬり)の 大橋の上ゆ 紅の赤裳裾(あかもすそ)引き 山藍もち 摺れる衣(きぬ)着て ただひとりい渡らす児は 若草の 夫(つな)かあるらむ 橿(かし)の実の
ひとりか寝(ぬ)らむ 問はまくの 欲しき吾妹(わぎも)が 家の知らなく

足羽川の真赤に塗られた橋の上を、紅染めの赤い袴の裾を引き、山藍で摺り染めにした青い衣服を着て美しい女が歩いてゆく。たった一人で渡っていくあの娘には夫があるのだろうか、それとも独り寝しているのだろうか、問かけてみたいと思うが彼女の家がどこにあるのかわからない。

下記の壁画に女子群像に描かれた衣装には赤色ではないですが、長い裳裾(もすそ)見えます。飛鳥から山ひとつへだてた河内地方は、万葉の歌の舞台として重要な地域で、高松塚の女人らに見がまう裳裾をひるがえし行き交ってたことがうかがえます。