原爆投下

>日本が先にアメリカを攻撃したから報復として原爆を落とされたのですね。

ポツダム会談は1945年7月17日から8月2日に開催されます。トルーマンチャーチルスターリンの三人の巨頭は、表面は礼儀正しく、そして内面では激しく対立していたのです。なぜなら、ポツダム会談ではすでに降伏したドイツの資産と収益、また、これから行われる日本の占領、分配についての思惑があったからです。
1945年、昭和20年7月16日、トルーマンに一通の電報がとどきます。
「今朝オペレーション完了。診断は、まだすまぬが、結果は満足すべきものがあると見られすでに期待を上廻っている」電文(極秘、至急、陸軍省、32887号)
チャーチルは、この日のことを回想録の中に次のように書き残している。
「7月17日、世界を揺るがすようなニュースが入った。午後、スチムソンが私の宿舎を訪れ一枚の紙を置いた。それには“赤ん坊は申しぶんなく生まれた”と書かれていた。我々はロシアを必要としなくてもよくなった。我々は彼等の助力を乞う必要はなくなった」
トルーマンは、ようやくソ連の力をかりることなく、日本を降伏させる切り札を手にした。

原爆計画はミッドウェー海戦後の1942年9月、マンハッタン計画により始まり、ポツダム会談の1日前に完成した。ポツダム宣言のなかの「迅速且つ完全なる破壊」とは原爆投下の脅迫でもあった。アメリカ大統領トルーマンは「日本人による許し難い真珠湾攻撃と戦争捕虜殺害であります。野獣を野獣として取り扱わなければならない」として原爆投下に踏み切っている。すでに前年の9月に米英は原爆投下をドイツでなく日本に限定することを決定しています。

トルーマン発言にみられるように、究極の戦略爆撃・無差別殺人として原爆投下には、早期終戦・人命尊重の立て前の裏に、アジア人・日本人への人種主義的差別意識があることは明らかである。さらに政治的背景としては、戦後世界政治においてソ連に優越する地位を得ようとするアメリカの国際的エゴイズムです。

しかし、日本は太平洋戦争の開戦によって、国家神道による戦争遂行のための国民強化は、ますますファナティックな様相を呈した。1945年7月26日のポツダム宣言発表に際しても、政府指導者たには「国体の護符」の条件にこだわり続けたことが、ソ連の参戦と原爆投下を招く結果となったことは言うまでもないです。