玉を抱く

尊派志士の間では「玉を抱く」「玉を奪う」という隠語が盛んに使われた。「玉を抱く」ものが官軍、「玉を奪」われれば賊軍、とくに木戸などは玉を奪われれば「芝居大崩れと相候」という表現を用いている。「王政復古は一芝居」打ったということですね。
普通なら、「王政復古の一芝居」に憤慨して、力ずくで「玉」を奪い返しに行くところですが、慶喜はさすがですね、「奸藩の所為は内まくの事にて、表向きは顕然と朝廷に列り、天子を擁し号令いたし候事故、軽易に奸藩を御討伐にては、忽ち御名義上に拘り申可」と考え思いとどまった。つまり、慶喜は朝敵の名を冠せられては、事理を争う見込みなしと考えた。慶喜は毛並み、頭、行動力の速さなどは、大久保も及ばないのではないかと思う。ただ残念なことに、頭のよさというか、家の家風「尊王」というか、毛並みの良さが仇になったともいえます。