大君制国家

大政奉還と一体になる徳川の政権構想についての考察。

大政奉還  慶応3年10月14日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜天皇(朝廷)に政権返上をねがいでて、翌日天皇の許しをえた。江戸時代を通じて将軍は国の統治権をもち独裁的に政治をうごかしてきたが、討幕運動が進展するなかで幕府は政治の大権を朝廷にかえすことで討幕運動の出鼻をくじこうとした。大政とは国の政治をさす。

この年7月赤松小三郎の意見書で、公武合体論に立ち、内閣制・二院制というべきものを主張した。天子のもとに国政全般を統括する行政府の長置き、財政・軍事・外交・刑法・租税のそれぞれを司る宰相とする天朝のもとでの内閣制である。議政局は上下二局に分け、上局は諸侯・旗本から、下局は各藩から門閥貴賎にかかわらず人材を選挙で公平に選ぶ。議政局は立法に任にあたり、国事のすべては上下二局で決議した上で天朝へ建白し、その許可のもとで国中に命じるというものである。
9月には洋学者津田真道の「日本国総制度」の構想が幕府に提出された。津田案は、徳川氏に全国を管轄する総統府の長として軍事権をも把握させ、立法府は総政府と法制上下両院が分掌し、この両院を置くという徳川慶喜を中心とする全国政権構想であった。
また、松平乗謨が10月18日に提出した意見書で、その大要はつぎの通りである。
1. 全国および州郡に上下の議事院をつくる。全国の上院は、諸大名から10名入選し、下院の30名は、大小名より無差別に選ぶ。州郡の上院(10名9は大小名より出し、下院(30名)は藩士をふくめ広く人選する。人選は選挙による。
2. 国政はすべて上下院の議を経る。その決定事項には「主上」も異論をはさみえない。


3. 全国守護の兵を置く。そのため新しく海陸を設け、各地の要所に配置する。全国守護兵としての海陸軍仕官は、大小名・藩士から広く人選し、強勇で志ある者を選び、費用は諸大名・諸寺院の高三分の二をの納入させ、さらに商税等をふくめ広く一般から取り立てる。
上記の案は、朝廷と中央政府との関係があきらかでないが、要は各藩の私権を中央政府に納めて、軍事力もそこに集中し、国政はすべて議事院という議会の議を経て行う、というものである。

大政奉還の前日、つまり、10月13日、洋学者西周は、二条城に召し出され、慶喜に国家三権の分立やイギリスの議院の制度などを西に問い、西はそれらのあらましを述べた。そして、それを手記して翌日慶喜に提出した、とされる。(明治維新、日本の歴史7)

西の立案した構想は、「大君」制で、大君に慶喜がなり、大阪を拠点として、議会制の形をとりながら政治の実権は大君の慶喜に集中する。軍事的には当面は各藩がそれぞれもっているが、将来はすべて大君が把握する。一方、京都の天皇は政治にまったく無権利の状態におかれる。
政治的にも経済的にも十分配慮されたものであった。(日本の歴史15開国と倒幕)


いっぽう、薩摩藩は公卿(くぎょう)岩倉具視の工作を通じて武力討幕を計画していた。10月14日に薩摩・長州両藩に討幕の密勅がだされたが、これはくしくも大政奉還と同じ日で、翌日に大政奉還が勅許されたので、土佐藩の主張にそうかたちで事態はすすんだ。しかし、武力討幕でなければ日本は変わらないと考えた大久保利通ら討幕派は、12月9日の宮中クーデタによって慶喜の官職と土地を返上させる辞官納地を決定し、旧幕府側を挑発した。これにより、旧幕府軍と新政府軍の戦いが翌1868年(明治元)1月、鳥羽・伏見の戦からはじまったが、この戊辰戦争における旧幕府軍の敗北で、大政奉還のもくろみはくずれさった。

大久保利通らによって慶喜が歩もうとしていた「大君」制国家への道を粉砕されたともいよう。