明治維新に思うこと

外圧により、今までの日本の体制(門閥制度)に歪みが入り、そのひび割れから底辺に居た人々の鬱積した力が噴出してきた結果が明治維新の原動力になったのではないかと最近は考えています。しかし、体制側の人々は今までの固執した考えでは、「黒舟」という開国を迫る列強の意志の強さに対して、体制側の人々の一貫した対応が取れなかっことにより、諸藩が幕府対していろいろと口だししてきた。諸藩は諸藩でその中でも外圧に対する考えは今までの殿様、家老らのかんがえでは、幕府同様、この外圧に対して一貫した対応をするだけの知識もなければ、対応もとれなかった。そこで、幕藩体制社会の枠外からの自由な考え方ができる人々が浮上したのではないかと思う。維新の志士はみんな若という特徴がある。どんどん新しい海外の知識を吸収できる。その共通意識により、藩を越えて自由に志士同士が、天下国家を論じる。

幕末、吉田松陰が主宰した松下村塾明治維新の多くの志士、久坂玄瑞木戸孝允高杉晋作伊藤博文山県有朋らをそだてた。吉田松陰は当時の思想家佐久間象山から、学ぶ。
佐久間象山は海外事情の研究をし、アヘン戦争(1840〜42)でイギリスに清がやぶれたこともあり、海防の重要さを痛感、西洋砲術をまなび、洋学(蘭学)の知識をえるためオランダ語をまなんだ。その思想は、人間内部の倫理をきわめる東洋の道徳と、天地万物の理を明らかにする西洋の科学技術が朱子学によって統合されている。道徳や社会体制は伝統的なものを、科学技術などは西洋のものを積極的にとりいれた。
その他の門下生として勝海舟坂本竜馬らがいた。
佐久間象山は幕末期に幕府の昌平坂学問所の教官となった佐藤一斎に学んだ。一斎は表向きは朱子学だが、実は陽明学の学者であり、吉田松陰西郷隆盛もその著作の影響をうけたという。
一斎の陽明学は、明治維新を陰でささえた思想として大きな意味があったといえよう。
陽明学は中国、明代中期に王陽明によってとなえられた学問で中国では王学、または彼の出身地から姚江(ようこう)の学というが、陽明学というのは、日本の明治期にはじめられた呼称である。

中国宋の時代は、新興の知識人たちが科挙試験を通じて官僚になるという近世的社会になったので、当時の知識人の子弟は、科挙の試験に及第して官僚になることを人生の目標にしていた。王陽明もまたそのための勉強をしながらも、聖賢になるために学問をするのだという気持ちをもっていた。28歳で最終試験に及第して役人の道をすすむことになったが、年少の武宗が即位すると劉瑾(りゅうきん)一派の宦官たちが勢力をもって横暴をはじめ、彼らに批判的だった王陽明はむち打の刑をうけて貴州の竜場にながされた。左遷されて貴州の竜場という僻地(へきち)にながされたとき、倫理的実践の方法に深くなやんだ。朱子は事事物物、個別に理を追究することからはじめるべきだという「格物窮理」の説を修養の方法としたが、この方法によるなら、まずは四書五経などの経書をよみ、外から知識として理をまなび、それからそれを実践するという「知先行後」となる。
しかし僻地にあっては、書籍もなければ読書も思うにまかせず、中央とはことなる異文化の中で通常の礼法は通用しない。彼は朱子流の方法では解決がつかないことをさとり、倫理的判断をみずからの純粋な心意にもとめることにした。つまり自己の心こそ理であると考え、「心即理」の説をとなえる。政変によって中央にかえることができたのち、彼はこの考えを発展させて学問をすすめる。経書観についても、経書の言葉はほかでもない自分の心を書きしるしたものだと解釈し、朱子格物致知を重視するのに対し、誠意(心の意念を純粋にたもつこと)を重視する。しかしここで、聖人が今この境遇にあったらどうするであろうと考え、「心即理」、つまり、わが心こそ道理なのだ、わが心を基準にして行動すればいいという境地に目ざめた。そしてやがて「知行合一」つまり知識と行動が一体のものだということであり、朱子の「知先行後」に反対して「知行合一」を考えた。

つまり、明治維新の推進役となった重用な役割の人物は、久坂玄瑞高杉晋作勝海舟坂本竜馬らは「知行合一」という一種の過激思想が彼らをかきたてた行動の源かもしれませんね。

幕末、多くの若者たちが歴史の舞台に登場し、志に散っていきました。それは維新という歴史の流れの激しさであり、その激しい流れをだれもが止めることは不可能だった。たとえ、12月9日の宮中クーデターが失敗しても、その流れは止まることがなかったと思う。