歴史おける犯罪の善悪

歴史においても、個々の殺人や犯罪の善悪はその当時の法により決まってくる。現代の感覚では到底許容できかねるものもある。当時のありようを現在の感覚で見ようとすれば、自分の情動的思考が入り、基本の部分で本人とはちがった人物を作り上げる。作家とは、この辺を明確に自分の思いがあって、初めて生きた歴史小説を書くことができるのでしょう。


歴史の中においての善悪のその一番の例は人を殺すという行為でないかと思う。
「現在も殺人自体は悪でもなんでもない」と言い出したらビックリすると思います。
私は、人というのは、本来は人を殺せないようになっている。それ以上、人と人は助け合いながら生きるものと思っている。しかし、現在にも「朝、新聞をみれば、そんなことないよ」と言われるかもしれないが、ある程度の客観的に語ることができるが今回は歴史上における殺人について述べるもので、そのことについては、後で機会があれば、カキコします。

現代、民主的な法を採用している国々にいる我々は人殺しをしないのは、法の裁きと、死体への恐怖というか、倫理観がそれをさまたげているからである。もし、法がなく、死に関しての倫理観がもてない人々に対して人を殺してはいけないといっても、「はい、わかりました」ということができるか。暴力に支配された人々はその中の倫理観で判断して行動しなければ、生きていけないのあるから、人を殺すという行為は、ちょうど盗みが悪いのはモノが個人の財産と皆が認めてはじめて成立するが、そのなかに財産と皆が認める軌範(法))があるから、しない者もあるが、大概は法の裁きがあるからであろう。もし、その軌範を守る力がなければ、それを悪と認識できない者も生まれる。北朝鮮拉致事件も同じようように考えることもできます。
民主的な法を採用している国々にいる人々もいったん戦場にでれば、殺人は合法的になり、誰らもとがめられず、しかも近代兵器は敵をみないで殺すことができる。兵士は喜々として殺人をおかし、その晩はぐっすりと安眠するか、さもなければ勲章の夢でも見るにちがいない。もっと大胆になって、死体を単なる「もの」とみなすことができるようになれば、白熱戦おろか、銃殺や市民の虐殺さえ平気になる。現にかつてわが皇軍将兵たちが中国などでおかした輝かしい成果なるものは、そのことをはっきりと証明しているではないか。そこにはべつに特別な人間だったのでなく、普通の父親や兄弟だといであり、いまも町や畑で仕事している誰彼なのだ。しかも良心の呵責に耐えかねて自殺したというような話はほとんど聞いたことがない。再び同じ条件がおとずれたとき、彼らが、私たちが、同じ行為をしないと誰に保証できよう。公に許された殺人は、あまりにも容易すぎるのである。
現在も殺人自体は悪でもなんでもないといえることができる。テレビや映画で殺人が当然のごとく映しだされて、なんの意識がなく楽しんでいる。ましてや、歴史の中においてはなおさらである。