西南戦争

>それならば、権力欲も戦意もなかった西郷さんに刺客を向けて、戦争をけしかける必要はまったくなかった。
自己本位に目先の利を追っただけではないか。

>西郷は、薩摩で武力を持った時点で攻撃されても仕方なかった。
大久保が刺客を送ったことには批判的だが、その後の西南戦争の責任はすべて西郷にある。
一国で国家以外のものが軍事力を持つことは十分すぎる戦争理由だからだ。




田中彰によれば、木戸は死のほぼ一ヶ月前の日記に、西郷にはやや同情的に、そして大久保には厳しく、いま内務卿を引退し、「朝廷の偏重を熟視、艱難の際当然の道理に必死尽力あらんことを望む」と書いたと言っている。

薩軍が出撃した後に、鹿児島に赴き鎮撫にあたった勅旨柳原前光の報告書に「此時に當り、反するも誅せらる。反せざるも誅せらる」と西郷の必ずしも立たざるえなかった情勢が説明されている。

思うに、西南戦争は未然に防ぐことはできた(西郷には十分の理があると認めているものたちも政府内にも居たので説得により)のに政府から挑発により、西郷は部下の暴走を阻止しそこね、不本意にも巻き込まれたもので、ただ、弟子たちが挑発にのり、暴走を止められなかったのは、責任があると思う。そうなるまでの過程に西郷には十分の理があったのではないでしょうか。しかし、「鹿児島は西郷の創設した私学校の独占するところであり、士族録制も改められず、地租改正も行われず、中央政府の威令の行われぬ、独立国たる観を呈していた」(遠山茂樹より)とすれば、当然どんな政権であっても許されることではい。その結果、金を使い、人を殺し国勢を衰えさせたのは事実だった。(これは、ほぼ海舟の考え方を参照)

ちょっと印象に残る言葉は「・・・一時成功したのは士卒の心を得て居るからである。しかしながら、西南の役になっては、それが身を亡ぼす元になってきた」(西郷南洲悦話より)世の中まっすぐに自分の信念を押し通そうとすれば、必ずしか、他の摩擦により、打ちひしがれるもの。