隋類の所見不動なり

2年前に中古本屋で昭和33年発行の田中忠雄の「禅人禅話」を買って読みました。定価320円がなんと800円の価格がついていました。私の知らなかった世界で、アジアの大陸にまたがる古今にわたる禅の巨匠たちの物語で、伝説、逸話のようなものです。
それらの話一つ一つに、「なるほど」と妙に納得する感動がありました。何回か読んでいるうちに、中の題目をみるだけで、すぐに話の内容が頭に浮かぶようになりました。話は一話は短くて、インド「まぬら」「かくろくな」「ばしゃした」の3話、中国「達磨」から「とうざん」まで、日本「道元」から「雄奉正忠(ゆほうしょうちゅう)という居士までで、全部で52話です。今でも、ゆっくり、楽しく味わっています。

おいしい話ばかりですが、みなさまにひとつ一番最後に書いてある話を味わってください。

題目 「一人よがり」、書き出し、「この書物を終るに際し、何をもって結びの言葉としたらよいだろうか」で始まります。後は簡単に要約してカキコします。

一水四見の譬」(いっすいしけんのたとえ)という言葉があります。

この意味は、まず、天人は水を珠玉(しゆぎょく)というのである。それはそのはずで、天女が羽衣で水面をはばたくと、水滴が散って玉となり、七つの色に光るのである。

ところが、鬼畜は水を濃血(のうけつ)と見る。それもそのはずで、鬼畜が水に入ったら、たちまち七転八倒して苦しみ死ぬ。だから、水がいまわし濃血に見えるのである。

これに反して、竜魚は水を宮殿と見る。竜魚にとっては、水ほど住みよい場所はないから、水は金殿玉楼である。

そうして、最後に、人間は水を「水」と見るのである。

つまり、「隋類の所見不動なり」(ずいるいのしょけんふどうなり)ということである。
天女、鬼畜、竜魚、人間といった具合に、類に従って見たところがちがうのである。だから、人間も、自分たちが水と見るからといって、他の種族も同じく水と見なければいけないと強いることはできない。人間も、やはり、多くの種族のうち、一つにすぎないのだ。

人間だけが、客観的真理を知っているわけではない。珠玉でもなく、濃血でもなく、宮殿でもなく、水でもなく、本当の水といようなものが別にあるわけではなかろう。仮に、そういうものがあるとしても、どうして人間がそれを知り得ようぞ。

やはり「隋類の所見」の一つとしての水にすぎない。

しかるに地上の人間は、ずいぶん思いあがって、自分中心にばかり考える。

世界が自分のために存在するかのごとく錯覚したのと同じ原理で、世界や社会は、一集団、一国家のために存在するかのごとく思いこんで行動する。

他者の身になって感ずるという人間の最高の能力が、寛容ということの真義なのだ。


思うに、過去の出来事や現在刻々と起る国際的並びに国内的は一切の問題は、例外なく「一水四見」の理で動いている。
自分の主張を絶対化し、尚且つ、自分の思いにより、自分だけが正しいと思いこむ悪習から、すみやかに開放される必要がある。
みんなも、こちこちの思いをもう一度よく、もみほぐし、柔らかくすがよいではないかと思う。そこに本当のゆとりがある。