そもそも満州事変は昭和6年9月18日夜柳条湖で鉄道の爆破を直接の原因として起こったものです。

この爆弾は今田新太郎大尉が調達して、川島正大尉の指揮下の河本末守中尉が爆破作業を担当して行った日本軍の謀略で、その直後北大営で何も知らずに眠っている中国兵を中隊主力で攻撃した。その夜には奉天市を占領し、翌19日には、はるか北方の長春を占領し、21日には東方にはなれた吉林を占領した。それから日増しに拡大し、ついには全満州を占領し、その支配のもとに満州国を建設した。

この事件の最終確認はこの謀略決行日の前々日の16日に奉天の特務機関内で最終の打ち合わせが行われたのである。夜明迄には、奉天全市に軍政が布かれて臨時市長に土肥原大佐が就任した。この土肥原大佐は当時の奉天特務機関長です。

たしかに、レールを爆破したが、その直後に列車が通過して定刻に奉天駅に到着したので、国際連盟からリットン調査団には列車が通過してから爆発が起こったと関東軍が説明したお粗末な話もある。

列車をひっくり返して多数の死傷者を出すことで、武力行使の大儀名文を得ようとしたのであろうが、その列車の乗客のほとんどが日本人であったことを思えば不幸中の幸いであったかも知れん。

また吉林の大迫機関は日本居住区に次々と爆弾を投げ敵から攻撃を受けたように工作した。

ハルピンでも特務機関が正金銀行支店などいくつかの建物に爆弾を投げ同じように工作し、居留民を恐怖におとしいれ、それを口実に関東軍の出動を企てたのである。さらに、この満州独立を行うために列強の注意をそらすなめに、上海では中国人を買収して日本人僧侶を襲撃し、そのひとりを死亡にいたらしめたのである。

この一連の日本の陰謀を日本人を守る為の自衛の行為だとする論調はちまたにおおく見られるが、日本人が日本人を殺害したり、恐怖におとしいれまで行う自衛の行為とはいかなるものであろうか。


それはさておき、その後、同じような手口を重ねて戦線拡大し満州全土を手中したが、このような一連の動きが、当時の国際法に照らし、不法な侵略的戦争行為であり、また、国内法に照らしても、明らかに犯罪行為であったのである。

しかし、広大な満州を占領して日本の領土を拡大し、その豊富な資源を確保し、それによって日本の勢力を増大しようとしたことまでは、不法行為であったのであるが、その批判が列強国として軍事的介入に発展しうるかといえばそうとも言えなかったと思う。

アメリカにおいての満州の経略に対する位置づけ(圧力企業)はあったが、それが軍事的圧力に発展することはまず無かったと思うのである。それは、当時の大多数のアメリカ国民は満州が地上のどこにあるかも知らず、そのような土地で起こった問題に係わるとは考えられないからです。

また,イギリスも強大な日本軍との友好関係を壊してまで、田舎の満州ことで、問題を大きくする必要性もなければ、ロシアの進出を日本が肩代わりしてもらったような感じであったのであろう。

満州事変に関して日本が、それが、即、軍事的脅威とはならず、いわゆる列強といわれていた国々から激しく批難されたのは、当時、上海には日米英の共同租界があったところで、暴虐無尽な謀略を行ったことが、イギリスもアメリカも怒らしたということです。

どう見ても、一連の事件を起こした暴虐無尽な若者らに、このような合理的判断を求めることはどだい不可能であったと思うが、ワシが合理的に考えると上海に手を出したことが、負着の一手だったと思うのであるが、いずれにしても、満州事変が犯罪行為を起点として開始され、15年にわたる戦争が継続されたのであるから、この一連のことからも、太平洋戦争が違法な戦争であったことは明白である。

事実をスパイ映画だと混同してはいけないと言われる方がいるが、事実はスパイ映画よりもっとリアルなのである。、