ゴー・ストップ事件

ゴー・ストップ事件1933年6月17日、

大阪市天神橋筋の交差点を、赤信号を無視して渡ろうとした陸軍の一等兵を交通整理中の巡査が注意してけんかになった。これが皇軍と府警の対立として泥沼化し、事件目撃者の自殺や巡査の告訴騒ぎにも発展したが、5ヵ月後、警察側の譲歩で和解が成立した。軍のごり押し事件として後世に残る。

 午前十一時過ぎの大阪市北区天神橋筋六丁目の交差点で、歩兵第八連隊所属の中村政一一等兵が、赤信号を無視して車道を横断した。
 これを見咎めた曽根崎署交通巡査の戸田貞夫が制止させた上で派出所に連行すると、中村は戸田に食ってかかった。
「このような所に引っ張られる理由は、私には全くない。兵士は憲兵の言うことを聞けばいいのだ。巡査ごときの世話にはならん」
 二人は激しい口論をして乱闘になった。通行人の報せで憲兵が駆けつけ、中村を連れ帰ったが、この時の乱闘で中村は左鼓膜を破られ、全治約三週間、戸田は下唇に全治約一週間の怪我を負った。
 後日、陸軍側は中村が戸田にいきなり殴られたと主張したことから、第四師団参謀長の井関隆昌大佐が声明文を発表し、警察側に抗議を申し入れた。
 しかし、軍隊も警官も帝国のものであり、その立場に軽重は有り得ないとして、粟屋仙吉大阪府警察部長が反論した。粟屋は、戸田が中村を派出所に連行したのは、公務執行妨害に対する当然の処置であるという見解を示したものの、連行後の暴行は失当と判断した。このため、戸田は減俸処分になった。
 この処置では収まらない陸軍側は第四師団長の寺内寿一中将、荒木陸相を背景にして「軍の威信を傷付けた」と抗議の声明を発表した。
 これに対して警察側も県忍大阪府知事山本達雄内相、松本学警保局長と組んで、「警察にも威信がある」と対抗する。
 両者は戸田、中村の身辺調査まで行ない、身分・身辺に関する暴露合戦を繰り広げるなど、警察と陸軍の対立は泥仕合の様相を呈しだした。
 後に「ゴー・ストップ事件」と呼ばれる事件である。
 結局、大阪地方裁判所検事正の和田良平と兵庫県知事の白根竹介が調停に当たり、五カ月後の十一月十九日に府警察と第四師団が互いに訪問して挨拶を交わすことで、和解するに至ったのであった。
 事件の後、憲兵司令官と内務省警保局長とが、「現役軍人に対する行政措置は憲兵が行なうものとする」という覚え書きを作った。
 これによって、警察も軍人・軍隊を憚らなければならなくなったのである


 国外では満州駐屯の関東軍が、満州から華北に向かって侵略しようとしており、国内では荒木陸相が更なる軍備を充実させるために、陸軍の国策秦大綱なるものを打ち出そうとしていた。
 日本の軍国主義化が進み、軍部の政治的発言力が高まってきたこの日、軍部の横暴を象徴するような事件が起きた。