民族主義とは

東條英機の秘書官赤松貞雄の話で、南京に入る道路の上に、斥候などで中国側に捕まり処刑された日本兵の死体が置いてあったそうです。その死体は、手足が切られ、性器も切られて口の中に入れてあるという。それが何メートルかおきに並んでいた。それを見て日本兵は完全にアタマにきて異常な心理状態になっていたと、日清戦争の旅順の虐殺も似たような事情で、耳を削がれたり、手をもがれた日本兵の死体を見て、カッとなって、どちらも旅順や南京に突入すると、滅多やたらに殺してしまった。
関東大震災の時には日本人も狂気のように「朝鮮人狩り」をしたことも歴史の事実ではなかったでしょうか。

最近では1995年、ボスニア東部の町でセルビア武装部隊によるイスラムボスニア人大量虐殺が行われ、8千人を超す男たちが忽然と姿を消した。

戦争は醜い。どちらも正義を主張して譲らない。セルビアが悪いのか、クロアチアなのか、ムスリムなのか。おそらくこれらの指導者らは個々の人間の尊厳には疎いのだろうと思う。
全ての人が、自分らしく人生を生きる権利を持っています。しかし、その権利を奪うことはなにものにも許されざるものである。しかし、人間の尊厳守ることは簡単なことではありません。上記の悲劇。これは人類が今世紀に経験した、最も悲惨な歴史のひとつです。だが、これらの事実に無視つづけ民族に誇りを高々に歌い上げる一種の狂気は今も根強く存在し続けています。民族、部族、宗教の違いで憎しみ合い、紛争が続いている国はたくさんあります。問題は紛争の根本的な原因は何かということです。私達の心に潜む「傲慢」「エゴ」「無慈悲」が日常生活のなかでも「偏見」「無関心」「いじめ」などとして現れているのではないでしょうか。
ともあれ、まず歴史の事実を知ること、そしてその時代に生きた人々の思いを我が身に置き換えて考えてみる、ということが平和と人権を考える出発になると思うのです。
アメリカは、なぜテロが行われほど、人々がアメリカを憎んでいるのかを理解する必要があるように思われる。アメリカが自覚していないのは、多くの近代化の武器を撒き散らしそれらの武器により、多くの国々の無辜の民を傷つけている事実である。
無辜の民が悲惨な戦争に巻き込まれるのは、利権のためには悪魔にも魂を売るような政治家や企業家が民族主義をあおった結果である。

経済が破綻し、明日の展望が見えにくいとき、政党への支持を広げ、選挙に勝つために、手っ取り早いのは民族主義に訴えることである。
 民族が違うからという理由で、だれも親友と殺し合いなどしたくないのは当然だ。しかし「民族」や「民族主義」というものは、無関心な者さえも「誇り」や「伝統」で魂をくすぐり、あるいは、いやいやでも強制的に周囲に従わせる。

 それがいやなら、国や家や仕事や友人をすべて捨てて別の遠くの土地に逃げ、一生裏切り者の汚名を背負って生きるしかない。多くは「民族の大義」という強制力に従わされてしまう。個人の意志など軽く吹き飛ばしてしまう、目には見えないが巨大で気まぐれな怪物、それが民族主義だ。

日本に犯罪が多くなるのは、民族の自覚が少ない為ではなく、上に立つもの、倫理観の決如によるところである。