国家神道

私は大久保・西郷が何の目的で倒幕したか、時代の流れにより、押し上げられるように、成り行きでなったと思っているが、絶対ではない。難しい問いであるが面白い。
両者とも私利私欲ないとする史観が強いが、私利私欲のない彼らの行動の源泉はなにか、他事を顧みず、一生懸命やたった目的はいかなものであろうか。
西郷と大久保は倒幕後に日本をどのような姿を描いていたのか、本当はなにも考えてはいなかったかもね。
王政復古のクーデターときの時点で見れば、徳川は、当時として、積極的にこれからの日本の姿を真剣に考えていたし、いろいろ研究されていた。しかるに、クーデターの時点で大久保、西郷らはこれからの(倒幕後)日本の姿を考えていた節がみえないし、はっきり言えば無かったかも知れませんね。
つまり、この時点で、幕府と戦い勝に自信があったとも思えなし、当然その先のことなど考える余裕があるとは思えないということです。だから、大久保、西郷らを田舎モノと思うわけです。
この当時、尊派志士の間では「玉を抱く」「玉を奪う」という隠語が盛んに使われた。「玉を抱く」ものが官軍、「玉を奪」われれば賊軍、とくに木戸などは玉を奪われれば「芝居大崩れと相候」という表現を用いている。「王政復古は一芝居」打ったということですね。
普通なら、「王政復古の一芝居」に憤慨して、力ずくで「玉」を奪い返しに行くところですが、慶喜はさすがですね、「奸藩の所為は内まくの事にて、表向きは顕然と朝廷に列り、天子を擁し号令いたし候事故、軽易に奸藩を御討伐にては、忽ち御名義上に拘り申可」と考え思いとどまった。つまり、慶喜は朝敵の名を冠せられては、事理を争う見込みなしと考えた。慶喜は毛並み、頭、行動力の速さなどは、大久保も及ばないのではないかと思う。ただ残念なことに、頭のよさというか、家の家風「尊王」というか、毛並みの良さが仇になったともいえますね。
日本の徳川が支配していた政治を田舎者達が一か八かのクーデターで、いっきに幕府が倒壊し、天下の政権を握った。しかし、日本の将来を考えていたか、いないかはわからないが倒幕側の田舎者達が政治を興していかなければならなかった。最大の課題は、これからの日本の政治と自分達が政治を動かすことの理由が必要であった。
政権を握った一部の下級武士達は、将軍、藩主、更には封建制にあっては同身分である他の武士を統御するには、彼らを超える権威として天皇を持ち出す以外なく、維新後、突如として朝臣となります。
そして持ち出した天皇を強烈に権威づけることは、イコール自分たち(朝臣)を権威づけ、統御する名目ができるわけですね。

みんな徳川家のような権威がありませんから、無理をして日本の国を作りあげていった。天皇が絶対君主でもあり、同時に立憲君主でもあるという理解しがたい制度的が出来上がってしまったのもこの辺にあったのでないかと思う。

長い徳川の権威の下に天皇とは無縁であった民人に尊王攘夷、王政復古の中核になる天皇像をどのようにして民人の中に定着させ、ひろめていくかということに苦心した。
当時、民人と宗教は、日常生活の中に密着していたのを利用した。天皇は民人を統一理念に糾合していく為に利用できる恰好の手段でもあった。
古来から民人の身近な宗教であり、ささやかな現世利益にも結びついていた産土信仰や氏神信仰としての神社(神道)を利用して、従来の神社(神道)の姿から大きく変質させ、歪め、作り替えていった。
これを神社(神道)改革と呼ぶ。

明治政府が作りだしたものは、天皇信仰を民人の中に広め定着させる道具としての神社(神道)であり、これを国家神道という。
では、神社の改変はどのように行われたか。

まず、「社格制度」というものが作られた。それは天皇というものが、いかにすべての神々の頂点に立つ立派なものかを知らしめる目的のために作られた、天皇家の祖先神である天照大神を祀った伊勢神宮を頂点とするピラミット体系であり、官弊社、国弊社、府県郷村社、無格社からなっていた。
また祀られる神々自身も意図的に作り替えられた。つまり、当時の一般的な民間信仰にもとづく神仏習合の神々を「記紀神話」の神々に力づくで替えていった。
これを「宮中三殿信仰」の強要という。

宮中三殿とは、天皇の祖先神である天照大神を祀る賢所、歴代天皇・皇族の霊を祀る皇霊殿、その他の神々を祀る神殿で、造化三神天之御中主神・高尊産巣日神・神産巣日神)と出雲神社祭神の大国主神を最後の神殿に入り、三殿の序列はこの順序であった。
国家は神話の神々を利用し、天皇中心の新しい神を打ち出し、強要したわけである。
こうして神社そのものを人為的に改変し、それと並んで国家新道の傘下に新しい神社を次々と創建していった。
こうした創建神社こそは、天皇制下の国家神道の理念を代表するものであった。
私たちの知っている神社のほとんどは明治以降の創建神社であり、その祭神というのはほとんどが「人」である。つまり、天皇、皇族,功臣や戦没者などの「人」が神として祀られている。これは古来の伝統的な神概念とは異なるものであり、天皇への忠誠心に対する崇拝の思想を民人に広める目的で創られたものであったことは、言うまでもない。
1906年から10年にかけて神社の統合・合弁がおこなわれた。一村一社主義といわれるこの統合によって、無数の神社が統廃合され、民衆にとって最も身近な氏神産土神を祀る無格社を中心に、6,7万の神社が整理された。神社は神道による天皇制強化の拠点となっていく。「敬神愛国、天理人道、皇上奉載」などの言葉で民人の教化し、さらに、治安維持法により「国体の教義」を逸脱したものは、取り締まっていった。

太平洋戦争の開戦によって、国家神道による戦争遂行のための国民強化は、ますますファナティックな様相を呈した。1945年7月26日のポツダム宣言発表に際しても、政府指導者たには「国体の護符」の条件にこだわり続けたことが、ソ連の参戦と原爆投下を招く結果となったことは言うまでもない。


天下の大道
 「天性、勝負事は嫌いで、裁判は人びとの争いを裁くため、私は法律家に適していない。ただ、公正を愛する心のみが、私を裁判所へつないでくれた」。戦後、最初の最高裁判所長官を務めた三淵忠彦の言葉です。忠彦は、会津武士の風格を持つ公正な法律家でした。
 忠彦は70歳で退官し、間もなく病床に伏します。
 「我々は天下の大道を歩こうよ、よしや抜け道や裏道があって、その方が近いと分かっていても、それはよしましょう。川に橋がなければ橋を架けて、そして渡りましょう」。忠彦の最後の言葉です。