物事の一面の形

物事は知覚を超越したもので、“無”としかいいようのない「ある」ものである。物事は無限定な本体だから“無“としかいえないが、時間的空間的に制約された現象により万物として現れるから”有“と見ることもできる。このように、物事は“無””有“の対立を統一する存在と考えられる。だから、物事に包括されるもろもろの対立関係の一面の形を取って現れる。それはけして固定したものではない。

「物事の一面の形」は荘子により思いをカキコしたものです。
老子荘子道教との間に直接のつながりはないが、老荘の思想にさまざまな民間信仰が融合して形成されたものですから、当然、荘子の言わんとする思いは、道教の根底に流れていると思う。

荘子は「ことばによる表現の対象たる事物は、本来、個別存在であると同時に、普遍存在でもある。したがって、ライ病患者と美女西施といった組み合わせを例にとるなら、美麗について、それぞれ極端な差異を示しながら、しかも同一なのである。さらにまた、いかに想像を絶した奇妙奇怪な事物といえども、「道」においれはすべて同一である。
形式のみならず、運動についても同一のことがいえる。一方からは破壊と見られる現象も、他方から見れば完成であり、完成とみられる現象もまた破壊である。つまり、いっさいの存在は、形式においても運動においてもなんら区別はないのである。」
これを万物斎同の理と言う。
だから聖人は、是非の区別をたてず、いっさいを自然の調和のままにまかせると教えている。