詩は普遍を述べる

アイリストテレスは、詩は歴史よりも「サイエンティフィック」だといった。

歴史は起きた事象を述べるだけだが、詩は普遍を述べるからであろう。

「白頭を悲しむ翁に代わる」劉希夷(りゅうきい)の唱の1節

年年歳歳 花 相似たり (ねんねんさいさい はな あいにたり)
歳歳年々 人 同じからず (さいさいねんねん ひと おなじからず)

年ごとに春は巡り、花は同じように咲くのに、
その年ごとにその花を見る人間は同じではない。

初唐の劉希夷(670年頃)字は廷芝(ていし)の1節ですが、この1節によく知られた物語が伝わっている。
年年歳歳」を含む二句を思いついたとき、作者の妻の兄弟であった当時高い詩人宋之問(そうしもん)の怒りにふれ、土壌で圧死させられたというのである(唐才子伝)。
今日伝わる宋之問の別集にはこの詩が収めてある。


暇な人はじっくり鑑賞してください。

白頭を悲しむ翁(おきな)に代わる 「劉希夷(りゅうきい)の唱の全文」

洛陽城東 桃李の花(らくようじょうとう ろうりのはな)
飛び来たり飛び去って 誰が家にか落つ(とびきたりとびさって たがいえのかおちる)
洛陽の女児 顔色を惜しむ(ろくようのじょじ がんしょくをおしみ)
行くゆく落花に逢いて 長嘆息す(ゆくゆくらっかにあいて ちょうたんそくす)

洛陽城(現河南省洛陽市)の東にある桃園(桃やすもも)の花びらがあちこちに飛びか、いったいだれのもとに落ちてゆくのだろうか。
洛陽の若い女性たちは、自分たちの若々しいうるわしい顔をいとおしむあまり、花びらの落ちる情景を見てため息をつく。sss4989さのことでないのでまちがえないようにお願いします。
今年 花落ちて 顔色改まり(こんねん はなおちて がんしょくあらたなり)
明年 花開いて また誰かある(みょうねん はなひらいて まただれかある)

今年花が散って、若くて美しくい容貌も衰え始めた。来年また花が開いたとき誰が元気でいるだろう。やはり 若くて美しくい容貌ていっているからsss4989さんもことかなぁ・・・

巳に見る 松柏くだけて薪と為るを(すでみる しょうはくくだかれてたきぎとなるを)
更に聞く 桑田変じて海となるを(さらにきく そうでんのへんじて うみとなるを)

松柏とは松やこのてはしわのことで、当時は、よく墓地のまわりにあった。戦いにつぐ戦いででそこらじゅうが墓地だったんでしょうね。
 すでに墓地の松などの木が切り倒されて薪となっている。また一面の桑畑がいつしか大草原に変わったという話しを聞いている。桑畑が海になると連想するのは、それだけ日本ではかんがえられない雄大さがありますね。今の北朝鮮もおなじようです。


古人 復た洛城の東に無く(こじん またらくじょうのひがしになく)
今人 還た落花の風に対す(こじん またらっかのかぜにたいす)

洛陽の東の町に住み、花を見たのであろう昔の人はもいない。
人間も同じようだ。いやいや、栄華は一時ということですね。無常感が漂います。

年年歳歳 花 あい似たり(ねんねんさいさい はな あいにたり)
歳歳年年 人 同じからず(さいさいねんねん ひと おなじからず)

ここはまえに説明していますので訳なし。無常感を甘くきれいに歌い上げていますね。

言を寄す 全盛の紅顔子(げんをよす ぜんせいのこうがんし)
憐れむべし 半死の白頭翁(まさにあわれむべし はんしのはくとうおう)
此の翁 白頭 真に憐れむべし(このおう はくとう しんにあわれむべし)
伊れ昔は 紅顔の美少年(これむかしは こうがんのびしょうねん)

このじいさんお白髪頭はまったくかわいそうだが、これでも昔は若々しい美少年(私)であった時もあったのだ。

公子王孫 芳樹の下(こうしおうそんほうじゅのした)
清歌妙舞す 落花の前(せいかみょうぶすらっかのまえ)
光禄の池台 錦繍を開き(こうろくのちだいきんしゅうをひらき)
将軍の楼閣 神仙を画く(しょうぐんのろうかくしんせんをえがく)

 王侯貴族の子女が満開の花の下に集まり、清らかな歌声をあげ、みごとな舞いを楽しんだものだ。あるときは、前漢の光禄大夫のそれにも似た豪華な庭園で錦布をくり広げて宴席を設けたこともあった。ある時は、将軍の楼閣に出いれしては、壁の仙人の絵をながめたこともあった。


一朝 病に臥せば 相識無し(いつちょうやまいにふせばそうしきなし)
三春の行楽 誰が辺にか在る(さんしゅんのこうらく たがへんにかある)

王侯貴族の子女が年老い病に臥すと身も案じてくれる友もなく、あの春の行楽はどこへ行ってしまったことか。

宛転たる蛾眉 よく幾時ぞ(えんてんたるがび とくいくときぞ)
須臾にして 鶴髪 乱れて糸の如し(しゅゆにして かくはつ みだれていとのごとし)
但だ看よ 古来歌舞の地(ただみよ こらいかぶのち)
唯だ 黄昏 鳥雀の悲しむ有るのみ(ただ こうこん ちょうじゃくのかなしむあるのみ)

しなやかなすてきな眉の美人も、どれだけながくその美しさを保てることか。つかの間に、白髪は糸が乱れるようになってしまうのだ。だれごらんよ、昔からの歌舞に酔ってきた地も、今はただたそがれ時に、小鳥やスズメが悲しげにさえずるだけなのだ。

感想

こんな心境になりたくないが、感じることがおおい。
それぞれ対比しながら、小気味よく、おおらかに無常感を表している。やはり「年年歳歳 」「歳歳年年」の言葉がすばらしい。