森女

時は、戦乱の世(応仁の乱)、森女(盲女)は鼓もって旅していた。
盲女が生きる術は、遊芸に携わり、三味線などをならして歌舞の技を売り歩いていた。それ等の女芸人を瞽女(ごぜ)といわれ、森女もそのひとりであった。

森女は激化する戦乱で男たちに弄ばれ、年も、はや三そじに達したとき、一休和尚とめぐりあわれ、森女を自分の庵に入れて、語りあったのであろう。彼女を再び戦乱の港に放ち返すつもりがなかった。ごく自然のなりゆきだった。つまり、一休は、一目みて捨てられなかった。一休和尚の傍らに起居していくうちに、老梅に花が咲いたのだろう。
森女は盲女ながら一休のために、極少な針の穴に糸をとおし、針仕事もしたという。

森女はめくらで闇をみていたが、じつは、普通の人々よりも、世の中がよく見えているかもね。

誰が八十近い爺様に三そじの美人に慕われてよろこばぬ人がいようぞ。

戒律にわずわせる宗教人ではなく人間的な、あまりにも人間的な自由な生活を愛された態度に敬服せざるをえない。

森女について詳記された書物はない。したがってこの女性が、どこに生まれ、どこに育ち、一休の草庵に住むまで、明らかではない。わかっていることは、盲目だったことと、その当時、彼女はたぶん30歳くらいでなかったか、と言われている。森女が遊芸人であったことは、一休自身も書いている。森女の画像もあり、鼓をもった旅人として描かれている。
やはり、不具者として、世間の同情下に、生きがいの無い生命を継いで来たに過ぎぬのである。それは、女であれば、より以上に惨憺たる酷烈な生活を余儀なくされたことであろうと思う。

「その昔は盲女は悉く殺害した」と偉い学者が言われている。

文久元年に神奈川に施療所を開設したアメリカの宣教師ヘボンも、「奇形児は見当たらなかった。というのは、こうした子供は生存を許されなかったからである」記している。

当然それ以前であれば、出生から外見的に奇形の顕著な、あるいは虚弱な子どもたちは、ほとんど誕生の祝福を受けることはなくその生存を拒否されたことは想像するに難しくはない。

しかし、森女一休が入寂すると、豪商・尾和四郎差衛門(宗臨)は、一休との約束にしたがい、彼の庵のほとりに草庵を築き、ここに森女を住まわせたという。

一休は、盲女をも成仏させたまふたということですか。





破れ庵、秋深まりて、弟子寝静まり、泣きすがる、虫の声。