新井奥邃について

新井奥邃について

田中正造が谷中に入った時18戸百余名の家族をかかえていた。彼の生活が無住所、無所得、無所有の生活であったことは、おそらくいかなる宗教者にもその例をみないほど徹底したもので
あった。彼の9年間にわたる戦いは、キリストの真理を確認し、その実
体にふれる機会となった。田中正造キリスト教に導いた人が新井奥邃である。

新井奥邃(あらいおうすい)
父は新井三郎左右衛門安信(やすのぶ)という仙台藩士、母辰(たつ)により仙台に生まれる。藩校・養賢堂に入学する。常之進安静(つねのしんやすよし)と命名。14歳。父死、享年62。彼は静好先生と呼ばれ、21歳より養賢堂助教授。21歳。君命により、学者として将来を嘱望され江戸遊学を命じられ、昌平黌に入学するも数日にして安井息軒の三計塾に学ぶ。23歳。戊辰の役おこり帰藩、「軍務局議事応接方御用」を拝命。慶応4年に帰国。藩の公文書を司る役につき、玉虫左太夫を助け奥羽列藩同盟の結成のため奔走する。24歳。榎本の諒解と支持を得て募兵のため金成らと仙台に来たるも、募兵不可なるを知り、また左幕党の責任を追及するに急なる事態、捕縛処刑者のリストに奥邃と金成の名もあるとの友人の知らせに驚く。しばらく身をかくせとの友の忠告に従い、奥邃は房州平郡青木村の友人宅に、金成は庄内藩をたより二人別行動をとり仙台を去って、函館に逃れる。そこでロシアの宣教師ニコライに会い、はじめてキリスト教を知った。

明治3年10月初め同志の生活費調達のため一旦仙台へ帰る。そこに、東京の金成から「至急上京せよ」との書状に接し、急きょ上京、金成の紹介で、のちの最初の文部大臣になった森有礼と会う。森は、キリスト教が日本の再建、の中で大きな役割を演ずべきであるという信念を持っていた。そこで彼は、一度だけ会った新井の人物と学識とそのキリスト教を学ぶことへの深い志に傾倒して、明治3年末、アメリカ公使として赴任したとき、新井を一緒に連れて行った。25歳。米郵船グレート・リパブリック号にて森一行とともに米国に向け横浜港を出航。サンフランシスコ着、大陸縦断鉄道にてワシントンへ。26歳。森に連れられ、ニューヨーク州ブロックトンのトマス・レーク・ハリスの経営するコミュニティ「新生同胞教団(The Brotherhood of the New Life)」に入る。新生同胞教団は教会ではなく、コミュニティであり、隣人に仕えることを抜きにして、人は神を信じることはできないというのが、ハリスの教えであった。そこでの生活は、労働における連帯の中に、人間が「私我殺滅」を通じて、神における新生にあずかる道であり、ひいては、社会の再生にいたる道もまた開けるという。つまり、勤労と祈りの生活です。
29歳。教団移転のため、奥邃ほか3名、その先遣として選ばれ、ハリスとともに、カリフォルニア州サンタ・ローザへ向かう。12月宿舎完成、移転完了。
45歳。12月13日より数日間、サンフランシスコ・クロニクル紙上に、シュベリエ(女性記者)による、教団とハリスの暴露記事が載り、一大センセーション巻起る。世の指弾をかわすため、翌年3月ハリス(69歳)は、とかくの噂になっていたミス・ウェアリング(63歳)と正式に結婚し、ニューヨークへ去る。

奥邃の帰国は30年後の明治32年、54歳でアメリカから、ほとんど無一文でかってきた。
甥の一郎、医師狩野謙吾、高野孟矩(もうく)、明治女学校の処静庵ほか、友人知人宅や借家を転々とし、4年余り流寓の日が続く。
新井奥邃のこの4年間の生活は、まさに田中正造が谷中村での9年間の生活と、まったく同じものであった。生きること自体が学ぶことであった。
57歳。平沼延次郎氏の寄進を受け、巣鴨に塾舎・謙和舎(けんわしゃ)を建てる。未完の建物に奥邃一人移り住む。
翌年4月頃塾舎完成、かねてから生活を共にしていた学生・書生らと共同生活始まる。60歳。奥邃の友人で詩人のエドウィンマーカムが葬儀を司る。
10月14日「大和会(たいかかい)」発足。初期会員36名。以後明治44年10月まで、月刊「奥邃語録」、ついで無署名の書物を随時刊行。77歳。6月16日午前6時 奥邃謙和舎にて死去。18日森巌寺に埋葬。

ルカ伝10章35-28
律法師がイエスを試そうとしてこう尋ねた.

「先生、何をしたら永遠の生命がうけれましょうか」イエスは言われた「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」彼は答えて言った「心をつくし精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」また「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」とあります。
人間が「私我殺滅」を通じて、神における新生にあずかる道であり、ひいては、社会の再生にいたる道もまた開けるという。つまり、勤労と祈りの生活です。
上記が新井の教えの核心となっていたのです。

田中正造が訴訟の維持が不能になろうとする瀬戸ぎわに追い詰められていた。
彼に窮状を新井に訴え、新井はその弟子の中村秋三郎弁護士を田中に紹介しました。

中村秋三郎は新井の意を受けて、8年の間全く無償でこの難しい訴訟にあたり、田中正造の死後ではあったが、ついに勝訴に持ち込で、師の信頼にこたえた。

新井の門下には多種多彩な弟子たちがいた。
布施現之助(東京帝国大学教授)柳敬(洋画家)隅川渡辺英一(教育実践者)任天佐藤正治郎(教育実践者)山川丙三(ダンテ神曲の翻訳者)などである。
また、吉野作造などを育て、高村光太郎や哲学者森信三らにも深い影響を与た。