裕仁さんの人格

川村伯爵が亡くなられ裕仁親王は4歳にもならず父君の住まいでの赤坂御所に戻られ、小さな離れにひとりで住まわれた。(なんと・・かわいそうですね)皇孫御殿は、東宮御所内に皇孫の為に作られたいわば幼稚園であって、東宮侍従の監督のもとに、「御相手」として選ばれた貴族の子供たち4人が二人ずつ交代で親王兄弟の遊び相手となった。このころの裕仁親王は、「御相手」だった久松定考によると、あまり大丈夫な方ではなく、よく風邪で休んでいた。また、無口ではあったが、「非常にまじめな性格」であったという。
子供において「非常にまじめな性格」ということはないと思うが、なにか別の意味が隠されているような、まわりに遠慮してこのような言い回しされたのではないかなぁ・・
裕仁親王の幼稚園での日常生活は、たくさんの教師に囲まれてさぞかし大変であったことは想像できます。月に一回宮城に出る遠足もあった。裕仁親王がいつも選ばれる行先は、いつも決まって上野動物園だった。しかし、普通の子供のように振る舞うことは許されず、園長から動物園の生活について長々と説明をきかさなければならなかった。
宮内省の侍従次長は「新しく動物園に連れて来られたアライグマが小さい檻に入れらて恐ろしさで震えているのをみて、幼い少年は急に元気がなくなり「僕、もう見たくない。おうちに帰りたいよ」と大声で泣き出した。
裕仁親王と弟君の秩父宮も一緒に同居していたが、母はわずか週一回だけしか顔を合わせることは無かったのである。秩父宮は運動好きで性格が外交的であったためたちまち幼稚園グープのガキ大将になってしまった。秩父宮と比べると裕仁親王は、ほかの子供たちが楽しんだような遊びを禁じれつらい毎日を送らなければならなかった。裕仁親王は、将来の天皇としての身分のためばかりでなく、内気な性格のために、ほかの子供たちとはかけ離れてしまっていた。
秩父宮によくからかわれた。「お兄様ったらね、転んだときね、起き方が分かんないんだよ」
このような状況に、二人目の弟の高松宮が加わった。
高松宮は、裕仁親王より活発で外交的だったので、彼らの学友であった永積寅彦は、「裕仁天皇は、二人の活発な弟君に比べるとはるかに内向的でしたが、葉山の御用邸の庭で戦争ごっこをなさるときになど、ご自分が司令長官になるのだと、いつも言い張っておられました。秩父宮様は大抵いつも裕仁親王の前衛部隊の部隊長になられ、兄弟はお二人ともいつも味方どうしでした。秩父宮様は絶対に敵方になろうとはなされませんでした」

永積は自分の父親からこう言われたという。
裕仁親王はいつか天皇陛下になられるお方だ。それだからと言って相撲を取るときわざと負けなくてはならん」
裕仁親王は威厳を保つことを教え込まれ、おのずとはかの子供たちとは生まれつき違っているのだということを意識させられた。姿勢矯正と視力改善のために裕仁親王には厳しい日課が課せられていた。とても書き表せないほどの過酷な指導方法で幼児にとって可哀想なはなしである。裕仁の生い立ちをかんがえれば、だれも彼を責める権利は無いと思う。責任はこのようなことをした日本の国の傲慢さが問題にされなかればならないのでは。

1920年1月倫理学の教師・杉浦重剛の指導のもとに、裕仁皇太子は、「平和成立の詔勅を拝読して所感を述ぶ」という作文を書いている。これはベルサイユ条約批准にあって大正天皇が1月10日に発布した詔書を題材に、皇太子が感想を述べたものである。その作文の中で皇太子は、
世界の思想界は大きく乱れ、過激思想は世界に広まらんとし、労働時間はやかましくなりたり、・・・・この際我国民たるもの詔勅におおせられたる如く奮励自疆、随時順応の道を講ぜざる可からず。(訳)各個人としては「詔勅は」重厚堅実を旨とし浮華驕奢を戒めざる可からず」と仰せられたり。今や国内は奢侈に流れんとす。今日特に留意すべき点なり。
「国力を培養して以って時運に伴はざる可からずと」仰せられたるは大切なり事なり。もし軍備を充実せざれば一朝事のありし時に国を防ぐ事能はす。(中略)
万々年後に政事を指導する大任を帯たる余は、此「詔勅」のご趣旨を遵奉して以て国家を益々盛んにし永遠の平和を確立して以て御父宮様の御恩徳に報い奉らん。

わたしなりに訳すと
世界は過激思想たる社会主義の広がり、労働運動がやかましくなっている。国民は一見、はなやかなようだが、自分の財力・能力などを過信して、今や国内は必要以上にぜいたくして、人を人とも思わぬ行動をしている。このような事を改める必要がある。また、今日、特に大事なことは、軍備を充実して、事があったときの備えとすることである。自分は御父宮様のいわれたことの大切さは十分理解している。みずからこの大任をまっとうする覚悟ができている。帝王学の教育の成果が、かなり現れているといえよう。

では当時の世情の推移をみてみます。
明治維新は、幕末の外圧により、自発的に勃興した一般有志者による薩長討幕派の政権奪取であった。そうして明治政府は、成立当初から反政府運動に直面した。新政府が氏族反乱を鎮圧したあとは、自由民権運動が台頭し、政府は明治憲法を発布された。
そして天皇イデオロギー(国体)が学校教育、軍隊教育、やさまざまな情報統制・操作によって天皇を「現人神」として敬う天皇制による「心の支配」を国民に強く浸透しさせた。学校教育では、「教育勅語」に代表される天皇制と修身・国史から国語読本や音楽にいたるまで巧みに系統化された軍国主義教材によって、天皇あっての日本、忠孝こそが最高の美徳であるとの価値観が子供たちに植え付けられていた。軍隊教育では、新兵たちに「軍人勅論」の暗記を強要し、「死は鴻毛(〔鴻(オオトリ)の羽の意〕 きわめて軽いもののたとえ)よりも軽しと覚悟せよ」(ここでみんな怒らなければただのバカである。いつの世も無知・無精神・無教養の人々がバカをみる醜い世界ですね。)
天皇のためにいさぎよく死ぬことの「尊さ」が叩きこまれた。また、情報統制・操作は、内務省を中心に強大な警察権力によって日常的に展開され、天皇制を批判するマトモな言論は一般マスコミからはほぼ完全にしめだされた。天皇に関する情報が、権力者たちによって一元的に管理されることによって天皇制を無知・無精神・無教養の人々におしつけていった。無知・無精神・無教養の人々の多くは、古新聞ひとつ処分するにも、「不敬」にならむよう天皇・皇室の写真が印刷されていないか気を配らなければならないほどに、日常生活の隅々まで道徳的にしばられていたのである。
だが、これらの「心の支配」の浸透装置を用いても、現実には第一次世界大戦以後の大衆社会化の進展と社会運動の広がりを前に、支配のタガがは緩みがちであった。天皇制による支配のタガが緩み始めたのには、大正天皇が、重い病気のために国民を強力に引きつける求心力に欠け、天皇の奇行に関するさまざまな噂話が一般にも流布して天皇家の権威が著しく低下したことにもひとつの原因があった。また、元老として大正天皇を支えた桂太郎井上肇大山巌山県有朋松方正義といった明治の元勲たちがあいついで没していったことも、明治以来の支配秩序が緩む要因でああったといえる。帝王教育を終えるか終えないかの年若い皇太子・裕仁親王1920年以降政務.・軍事の全面に立たざるを得なくなったことは、天皇制にとっては大きな危機であったとも言える。また、ほかならぬ皇太子妃をめぐる指導者の内部が「宮中其重大事件」として伝えられたことも天皇家の威信低下に拍車をかけた。

時の指導者たち原敬首相と元老・西園寺公房公爵は、この天皇制の権威低下、危機を皇太子の摂政就任によって打開しようとした。そして、皇太子を摂政にするまえに、外遊をさせて裕仁親王に大国の君主としての更なる自覚と見識をつけさせようと考えた。この外遊は、激動するヨーロッパで実物教育として見聞を積み、大戦後における世界強国の君主のあり方を皇太子に自覚させることもめざされていた。天皇や皇太子の側近の中には、外遊を機会に、皇太子の欠点が矯正されるのではないかとの期待もあったようである。皇太子の欠点とは、人前で落ちつかないこと、性格が内気で、物事を徹底的に追求しようという気分に欠けていることであった。
昭和天皇自身、この外遊の成果をイギリスにおいて「立憲君主制の君主はどうなくちゃならないか」をジョージ5世から直接教えられたことである、とのちに語っている。(天皇が言う「立憲君主」とは、本来この意味だったであろう)しかし、帰国直後の供奉長・珍田捨己の報告を聞いた宮内大臣牧野伸顕は、あらためて「後性質中御落附の足らざる事、御研究心の薄き事は御欠点なるが如し」と記しているところをみると、表面上、皇太子は外遊中にはあまり変化しなかったようである。だが、帰国後、皇太子は積極的に政務・軍務をこなすようになったのである。

私個人としては、東條英樹や昭和天皇も時代の流れでの中にあって自分なりに生きた点については仕方が無いのではないでしょうか。なぜなら、自分も同じ生まれであったなら同じ生き方をしたと思う。しかし現在考えれば過去にした日本の行為は許されるべきではないし、肝に銘じて反省して、また同じことがおこらないように、反省するところは反省して、これからの社会においてひとつの教訓としておおいに研究されるべきである。
最近の風潮として過去の反省などくだらないといいい、自分勝手な考えで国を指導しようとするたくさんの人々がいるのはなんと嘆かわしいことですね。やはり、底辺の一般人々つまり無知・無精神・無教養の人々が法や政治を意識しなくても生活していくことができる世の中がいいですね。法や政治はこれらの人々を守るためにあるもので、法や政治の哲学をもって指導してほしいものですね。


牧野伸顕日記、甘露寺受長・ヒロヒト素顔の日本天皇エドワードベガ・裕仁天皇、真須升味準之輔昭和天皇とその時代等参照