木戸幸一の心境

木戸幸一の心境
51年9月にサンフラン講和条約が調印された直後天皇退位を進言したが、その理由は
「今度の敗戦については何としても殿下に御責任あるところなれば、ホツダム宣言を完全に御履行になりたる時、還元すれば講和条約の成立したる時、皇祖皇宗に対して、また国民にたいして、責任をおとり遊ばされ、御退位遊ばさるるが至当なりと思う。・・・・・
これにより戦後、戦傷者の家族、未帰還者、戦犯者の家族は何か報いられるが如き慰めを感じ、皇室を中心としての国家的団結に資することは頗る大なるべしと思われる。もしかくのごとくせざれば、皇室だけが遂に責任をおとりにならぬことになり、何か割り切れぬ空気を残し、永久の禍根となるにあらざるやを畏れる。」(木戸幸一尋問調書より)

これに対して退位問題に関して天皇の意向を見てみよう。
46年3月6日の木村侍従次長は、
「また御退位につきましては、それは退位した方が自分には楽になるであろう。今日のような苦鏡を味わぬですむであろうが、秩父宮は病気であり、高松宮は開戦論者でかつ当時軍の中枢部にいた関係上、摂政には不向き。三笠宮は若くて経験に乏しいとの仰せ。」(側近日誌より)

木戸幸一が危惧したように、人々の間に[何か割り切れぬ空気]を残した所以である。