原爆計画

原爆計画はミッドウェー海戦後の1942年9月、マンハッタン計画により始まり、ポツダム会談の1日前に完成した。ポツダム宣言のなかの「迅速且つ完全なる破壊」とは原爆投下の脅迫でもあった。アメリカ大統領トルーマンは「日本人による許し難い真珠湾攻撃と戦争捕虜殺害であります。野獣を野獣として取り扱わなければならない」として原爆投下に踏み切っている。すでに前年の9月に米英は原爆投下をドイツでなく日本に限定することを決定していた。
トルーマン発言にみられるように、究極の戦略爆撃・無差別殺人として原爆投下には、早期終戦・人命尊重の立て前の裏に、アジア人・日本人への人種主義的差別意識があることは明らかであった。さらに政治的背景としては、戦後世界政治においてソ連に優越する地位を得ようとするアメリカの国際的エゴイズムがひそんでいた。原爆開発に関してアメリカはソ連スターリンに一切秘密をつらぬいたが、イギリスのチャーチルには連絡をとって、英米による核独占を対ソ外交の切り札にしようとした。何よりもソ連参戦の3日前の投下がそれを雄弁に示していた。戦後、米ソ冷戦体制への陣取り戦の犠牲に、広島、長崎市民、そして、朝鮮人が巻き込まれたといってもよい。
広島では死者24万人のうち在日朝鮮人が3万人が死亡し、約5万人が被爆した。そのうち1万人が死亡したと推定されている。

1949年7月17日からベルリン郊外のポツダムトルーマンチャーチルスターリンの三国首脳会談が開かれ、日本に対する即時無条件降伏が決定された。これが7月26日米英中によって発表されたポツダム宣言である。ソ連は対日参戦をした8月8日にこれに加わった。
これに対する日本の外務省は意思表示せずと主張し、軍は拒否と言う態度であった。鈴木首相の回答は黙殺であった。
ポツダム宣言の予告どおり「日本国伝全土の完全なる破壊」を行うために、8月6日には広島に、8月9日には長崎に原爆を投下した。