天皇機関説

天皇機関説問題 てんのうきかんせつもんだい 1935年(昭和10)2月19日、貴族院本会議で菊池武夫憲法学者美濃部達吉天皇機関説を批判したことでおこった政治問題。天皇機関説は美濃部によって代表される憲法学説で、大日本帝国憲法での天皇統治権を行使する国家の最高機関であって、国家主権は法人としての国家にあるとする。12年(大正元)以来、上杉慎吉らの天皇主権説との間で論争がくりかえされたが、20年代からは学界の主流として定着していた。しかし、満州事変を機に急激に力をました軍部ファシズムが右翼勢力と連携して攻撃しはじめた。

天皇の権限を憲法の枠内にとどめ、議会が天皇の意思を拘束できるとする美濃部の学説は、独裁をのぞむ軍部にうけいれられるものではなかった。はじめは美濃部に同調していた岡田啓介内閣も、菊池のはげしい天皇機関説排撃演説によって勢いをつけた軍部ファシズム勢力の圧力に屈することになった。美濃部は自説を詳述した主著「憲法撮要」などの発禁処分をうけ、1935年8月3日に政府が天皇機関説を排斥する国体明徴声明をだすと貴族院議員(学士院代表)を辞任した。

1936年3月、政府は文部省に「国体の本義」をまとめさせ、天皇機関説を完全に排斥して天皇の神格的超越性を強調し、その統治権は絶対無限であるという天皇イデオロギーが国民教育の中心思想として強要されるようになった。以降、軍部による思想統制がいっそう強まり、太平洋戦争敗北まで、神である天皇の名で行動する軍部への批判はいっさい禁じられた。(エルカタ百貨事典より)

原田日記から
天皇の意見は、はじめからはっきりしていた。4月23日原田は、鈴木侍従長から、こうきいている。
殿下は「主権が君主にあるかということを論ずるならばまだ事が判っているけれども、だだ機関説がよいとか悪いとかいふ議論をすることは頗る無茶な話である。君主主権説は、自分からいえば寧ろそれよりも国家主権のほうがよいと思うが、一休日本のような君主同一の国ならばどうでもよいぢやあないか。君主主権はややもすれば専制に陥り易い。で今にもし萬一、大学者でも出て、君主主権で同時に君主機関の両立する説が立てられたなら
ば、君主主権のために専制になり易いのを牽制できるから、頗る妙ぢやあないか。美濃部のことをかれこれ言うけれども、美濃部は消して不埒な者ではないと自分は思う。今日、美濃部はどの人が一体何人日本にをるか。ああ学者を葬ることは頗る惜しいものだ」とお仰せられ・・・・・」

>主権が君主にあるかということを論ずるならばまだ事が判っているけれども、だだ機関説がよいとか悪いとかいふ議論をすることは頗る無茶な話である。

機関説は議論の重大性を全く認識していない。

>君主主権説は、自分からいえば寧ろそれよりも国家主権のほうがよいと思うが、

機関説の重大性を認識していないので、責任が気楽に転化できるという心からでた。

>一休日本のような君主同一の国ならばどうでもよいぢやあないか。

やはり上記を明確にしている。
ここでも機関説は議論の重大性を全く認識していない。

>で今にもし萬一、大学者でも出て、君主主権で同時に君主機関の両立する説が立てられたならば、君主主権のために専制になり易いのを牽制できるから、頗る妙ぢやあないか。

そんな都合のよいがあれば、12年(大正元)以来、上杉慎吉らの天皇主権説との間で論争がくりかえされなかった。天皇機関説20年代からは学界の主流として定着していたことが全然分からなかったのか。

>美濃部は消して不埒な者ではないと自分は思う。今日、美濃部はどの人が一体何人日本にをるか。ああ学者を葬ることは頗る惜しいものだ」とお仰せられ・・・・・

天皇機関説は明治末期以来、東京帝国大学教授美濃部達吉が説いてきた憲法学説であるから、多くの学生や民衆に受けいられ、大正デモクラシーの政党内閣制に理論的基礎を与えた大正期においては、公認学説であった。
これは、常識の範疇である。

結論、明治以来の公認学説であった穂積、上杉らの天皇主権説は明治天皇の公認であったのであるから当然の考えであっても不思議ではない。一方、天皇機関説は絶対無制限万能の権力が天皇に属するものではなく、天皇といえども憲法の制限を受けるものであるとしているので、意外と苦々しく思っていたのであろう。だから、このような言葉があらわたと思う。

ここで、考慮することは、鈴木侍従長がなんらかの考えがあって天皇の考えを歪曲して伝えたのかもしれない。
歴史上では、当然考えられるのでそのまま信用することも疑わなければならない。

上記はあくまで私の主観であるので、間違わないようにしてくださいね。

皆様は如何思われます。ただし、この時点で天皇に「立憲君主」の言葉が現れていないのであるのでこの言葉を使い説明すること自体矛盾がある。

最後に、
歴史上の重要性1935年天皇機関説が否定されたことによって議会主義・政党政治の理論的基礎はうしなわれることになった。昭和ファシズムへの理論上国家に対する右からの革命であった。政党政治をになうべき政友会がみずからこの実行に加わったことは、まさに墓穴を掘るものであったといわなければならない。