天皇の心の内

一般的に明治憲法体制は強力な君主専制主義と基礎が根付いていない議会主義の二元構造をもち、両者は時代とともに、政治的・社会的・軍事的力関係である変化する構造をもっていた。明治専制国家を支えてきた天皇主権説が、大正期の美濃部的な天皇機関説に国家公認が変化することによって、大正デモクラシーとよばれる政党内閣が可能となったのである。
しかし、1935年に天皇機関説が否定されたことによって議会主義・政党政治の理論的基礎は失われることになった。昭和ファシズムへの軍部と右翼による大衆運動により実現したのである。あとはご覧の通りですが。

天皇の心の内まではいかな私でも立ち入ることができません。天皇の言葉の解釈については1989年の昭和天皇死去前後に史料が公開・刊行されるなかで大きく進展をみせた。しかし、やはり歴史には真理である「歴史は勝者が書いていきますので、都合の悪いことは切り捨てられ、敗者は忘れられます」の意味は含まれていると確信するのが普通の考えかたと思います。また、言葉についてもあとからいろんな理由がつけられますので判断はむずかしいですね。
たとえば、天皇の言葉を悪意に解釈すれば、
終戦の勅使に
「・・・・朕は茲に国体を護符し得て・・・・・宜しく子孫相伝え難く信州の不滅を信じ・・誓って国体の精花を発揚し・・・・ナンジ臣民其れ克く朕が意を休めよ。」
たとえば、8年にわたる戦争の目的であり、二百数十万の青年の屍を戦野にさらした目的であったはずの、なにかしもどこかに吹っ飛んでしまい、国体が守られたこと、すなわち安全であったことだけを喜んでいると聞こえるし。

講和発効の詠草には、「風さゆるみ冬は過ぎてまちにまちし 八重桜咲く春となりけり」
わが世の春の喜びこそあれ、聞く人により不快になるかもしれない。

最後に息子を戦争で失った一人の父親の痛切な叫びがある
「・・・・・私は日本国天皇に申したい。あなたは何故に責任をとらないか。とろうともしないのか。あたは脳病であった父君に代わった摂政じだいから約数十年というもの、一切合財の日本の政治が全く無知盲目のうちに行われたというのか。
あなたはも軍服を着ていた日本の軍隊において、「上官の命令は朕が命令と心得よ」という一条の言葉の故に、どれだけ無数の無理弾圧の悲劇があったろうか。それをすべて知らぬ存ぜぬ、責任はまったくまいというのか。・・・・明治大正時代の道徳教育の洗礼えお受けてきた自分には無体不道徳の態度には許すことができない・・・・。」
このようなことを大声でいいたい、叫びたい人はいたと想像する。