田中忌避発

田中忌避発言(昭和4年6月28日)

昭和2年5月28日
大元帥天皇裕仁が統帥する日本軍隊は中国・山東に出兵した。
南満州の権益を守るために、国民政府軍の北上阻止のため、満州頭目張作霖支持のため、首相・陸軍大将・田中儀一が関東軍に三東省出兵を命令した。

昭和3年4月19日
田中内閣は蒋介石指揮の国民政府軍が北伐に乗り出したのを理由に、また関東軍に出動を命じた。第二次三東出兵だ。6月4日未明列車による撤退中に奉天郊外において関東軍の手により爆殺された。

西園寺公望からの勧めもあって、田中義一首相は真相の公表と関係者の処分をきめ、昭和天皇に上奏した。しかし、陸軍、閣僚、与党政友会の反対にあって、これに屈した。

昭和4年6月28日田中は拝謁を申し出たが、天皇は参内、拝謁は許さなかった。(田中忌避発言)

翌年1月の第56議会で「満州某重大事件」として論議されたが、真相を国民に明らかにしないまま、7月1日、河本らは行政処分され、田中首相天皇から叱責にあった。

このときの田中忌避発言はたとえ違約があっても、内閣、政府が憲法やそれに基づく法律によって処理したことであるので、憲法下の天皇は、天皇を輔弼(ほひつ)する総理大臣以下が決めたことは、その決定に従うことが立憲政治では天皇の制限された行為だった。いくら天皇でも、輔弼の内容を変更することはできなかった。

総辞職の最終閣議では「かりにも一国の総理大臣を、そのように軽々に扱われることはいかがなものであろうか」という、疑問と批判の意見が閣僚の間から上った。
この閣議を聞いて、天皇は、貝のように口を閉ざしてしまった。

天皇と政府・内閣の関係で、天皇は、ものをいうのを控え始めた。のちの開戦前夜の御前会議で、発言を自ら封じた。この田中回避発言とその後の言動は、その意味で、天皇と国民にとって不幸なできごとであった。