お粗末な話

「先の決定(8日)はあれはあれでよいが、一方ソ連をして戦争終結の斡旋をせしむることもこのさい考えてよいではないか」と6月22日の御前会議で発言されている。

なお、この御前会議は天皇から6名の最高戦争指導会議構成員が召されたものです。

まぁ・すべて木戸や松平が中心になってお膳立てをして、天皇のこの言葉も木戸らが用意したものですがね。

すると、なぜ、天皇が8日の御前会議ではヤル気が満々であったのが、22日には弱気になったかが大きな問題として浮かうんでくるのです。

それは、8日の御前会議の後の次の日の朝、大陸の軍事視察から帰国した参謀長の梅津美治郎から、大陸の軍事力がとても戦いにならないほど弱体化している,と聞かされ、本土の戦力は大陸より劣っていることが明らかであったため、天皇は愕然として始めて天皇が日本の戦力を知ったというお粗末な話しだったという。

時はポツダム会談

場所スターリンの宿舎

湖を見下ろすベランダ

トルーマンスターリン儀礼訪問していた。
この席で、スターリンは日本からの近衛特使の派遣要請をトルーマンに伝えている。

スターリン
 このコミュニケーションに、回答する価値があるとお考えですか?

トルーマン 私は日本を信用していませんので。

スターリン
 子守唄で日本を寝かせつける方がよいかもしれませんね。日本が派遣を申し込んで来た特使の性格もはっきりしないし、取りとめもない返事を出しておくつもりですが。

トルーマン
 大変に満足です。

1945年、昭和20年7月16日、トルーマンに一通の電報がとどいた。
電文
「極秘、至急、陸軍省、32887号、今朝オペレーション完了。
診断は、まだすまぬが、結果は満足すべきものがあると見られすでに期待を上廻っている」

チャーチルは、この日のことを回想録の中に次のように書き残している。

「7月17日、世界を揺るがすようなニュースが入った。午後、スチムソンが私の宿舎を訪れ一枚の紙を置いた。それには“赤ん坊は申しぶんなく生まれた”と書かれていた。
我々はロシアを必要としなくてもよくなった。我々は彼等の助力を乞う必要はなくなった」

トルーマンは、ようやくソ連の力をかりることなく、日本を降伏させる切り札を手にした。

ポツダム会談では、すでに降伏したドイツの資産と収益の分配を中心にして、三人の巨頭は表面は礼儀正しく、そして内面では激しく対立した。
原爆という切り札を握ったトルーマンは、攻勢に出た。

チャーチルが、後に“鉄のカーテン”と呼んだ戦後の米ソ対立、冷たい戦争は、ここにすでに芽生えていたのである。

7月26日朝、アメリカのインディアナポリスは、最初の原意爆弾をのせて、太平洋のテニアン島に到着していたのだ。

お粗末な話の2