大院君

1864年にロシアは慶興にあらわれて通商を要求したが李朝政府は一且これを拒絶した。しかし1866年正月に同国の軍艦は再び元山にきて、通商と朝鮮内地移住権を強要しますらしめた。李朝政府はこの夢求の回答にたいして為すべきを知らなかった。李朝政府がこのような難関に遭遇していたのを機会に、活動を開始したのは天主教徒たちであった。数次の大弾圧にあったが、当時の天主教徒の南鏡三らは天主教布教の自由を保障することを条件として、天主教国フランスの援助をえて、ロシアの強要を避けることを大院君に建議します。大院君ははじめには

朝鮮政府の天主教大迫害により、朝鮮から追い出されたフランス人宣教師フェロンは、ハンブルクのユダヤ人エルンスト・オッペルトと、もう一つの遠征隊を計画します。フェロンは、大院君が多年にわたる祖先伝来の古い遺物や遺品が王陵に埋蔵されていることを知っていた。そこで彼は、もしもそれらの遺品類が奪いとられれば、大院君はそれを取り返すために、キリスト教徒たちに対する迫害を停止することに同意するにちがいない、と考えた。オッペルトは、陵墓に蔵されている財宝の話に興奮したらしく、その計画に同意した。そこで彼は、アメリカ人のジ

オッペルト自身は、のちに書物を出版しこの遠征について、彼はその中で、遠征の目的が略奪にあったことを認めている。