木戸孝允の征韓論

 王政復古の政変は、慶応3年12月し9日に起こった。トここで大活躍したのは、公家の岩倉具視であり、薩摩藩士の西郷隆盛大久保利通らで、木戸孝允はまだ長州の山口jに在っ七、討幕出兵の準備に余念がなかった。木戸が、京都の維新政府か言上京命令を受けたのが同月半ば懲、京都に入らたのは鳥羽・伏見の戦いも済んだ翌慶応4年正月21白のにノと√2犬5日に徴士、総裁局顧問を拝命した。新政府の重鎮木戸孝允の門出である。幾人か=いる長州藩φ政治家総代の十人め位置に木戸孝允は立っていたのである。 
 その後は、参与、外国官副知事、待詔院出仕、参議(3年レ6月rヽ・7年5月)、犬特命全権副使、文部卿(7年L月〜同年5月)、兼内務卿、再度の参議(j8年/3月〜9年3月)、宮内省出仕、内閣顧問等を歴任したが√その履歴は複雑だった。=づまり、要職就任を周囲から懇請されても、多く辞退したり、要職に渋々就任しても政治方針上の問題でしばしば辞意を表明したり、政界引退を仄めかしたり、その出処進退は儒ならなかった。   
 維新φ元勲√薩摩派と共に政府の根幹を支える長州派め代表である木戸孝允の明治1∧O年間は、政治の現状に対して不平不満が多ぐ、その行路は不安定で複雑だったのである。木戸の出処進退がレ複雑だった原因が何であ・つたのか。この問題を考察しながら;、初期明治政府の性格と政治家木戸の曇吐を併せて究明することが木稿の課題である。 
   2 維新の目的と征韓論                  (1)現実主義的目的合理主義者
 衆知のように薩摩出身の西郷隆盛大久保利通、そ七で長州出身の木戸孝允は、て維新の三傑」こと併称される。討幕運動から維新政府の樹立に甚大な功績があったための尊称である。しかしこの三傑は、政治家としての資質・性格が三者三様に個吐的で、さらに明治10年間の経歴も個性的
で区々(まちまち)だった。西郷は、戊辰戦争が終わレうたころから、=自分たちが創り/出七だ維新政
90高知大学学術研究報告∧第44巻 人文科学
 府に満足できず、廃藩置県断行から留守政府jの犬時期、、=政府を指導したが、ぞれ以外万は政府から離れた位置に立ぢ、最終的には明治トo年の西南戦争ヤ賊φ汚名を着で自刃するに至るノ道を歩む。丿他方、大久保と木戸とは、時には反目・衝突しながら=右ブ貫七で危うい提携を持続して、明治国家形白成の基礎確立に尽力した。大久保と木戸との提携は、薩長提携の象徴的重みを持っていたのである。
  七かしながら、薩摩出身政治家総代たる大久保利通力ぐ殆ど終始=貫して政府の重職に就いて、政府権力基盤の構築、さらには新国家建設の基盤構築に全身全霊を打ぢ込んで尽力したマ)に対して、長州出身政治家総代たる木戸孝允の足跡は紆余曲折に富んでい大。大久保は、木戸との提携断絶は薩長提携の破綻を意味すると理解して、不平・j不満め多い木戸を極力立てて、万政府にうなぎ止める
 ことに多大の努力を傾注した。木戸は自己を主張し\つつも√結果的には大久保を支持したのである。
ところで、歴史家徳富蘇峰は、木戸孝允をす理念的政治家」贈近代日本国民史・明治三傑』講談社学術文庫版、4 4 5頁)jと性格規定七だ上で、次のように解説しでいる。「木戸は決七て単純なる理念家ではない。。乾燥無味、我が考えたる所を遮二無二押し付けるjというがごとき狭陰なる理屈屋ではない。むしろ何れかと言えば世情に通七、人間味豊かな人物である○.I・しかも、犬彼の頭脳は、=
 一面詩人的であると同時に、また論理的であり、=理路整然√条理分明、こ始終一貫するめ傾向がある。
 従って、彼は国家の重大なる評定には、欠くべからざる人であるが、それを実行する責任者jとしでほ、寧ろ不適任というても過言ではあるまい。それは彼が余りに:自説を主張し、他と妥協する=を好まず、また健康を害して、激務を執るごとに甚だ困難であり、且宍つ一面非常なる感情家であり、そしの感情の興奮するところ、ややもすれば女性のヒズテリしに類するが如きことさえ少な」ぺ同前書、469〜7 0頁)く/なか9た、とよそのうえで√蘇峰は「大久保は、自ら進んで、或/いは自ら好ん
で責任の衝4こ当たらんと欲したが、木戸は出来る限\り責任:の衝に立つことを回避したよごれは4木
 戸が責任感め希薄なるがためといわんよりも、余りに濃厚な:るがためであづたか=有知れぬ」(4 6
2頁)と比較した。 木戸孝允は、政治行動の目的を何時も強く確認しつつ行動七だ61幕末最終局面の木戸の政治目的はぐ外圧高揚に対処くしてゝ・・・乱れた朝幕関係の大義名分を正すにあ丿だノ乱れた大義名分状況では外T圧対抗の国家的態勢がとれないと確信したjから懲ある。ト明治期の彼の政治目的は、]世界の情勢(「宇内之大勢」)を睨みながら、欧米列国に並列する宍ごとが出来る新国家の建設々あったレ維新の目的の牛ニワードは、「宇内之大勢」に追いつく/であり、ダ換言すれば欧米列強の=世界跳梁という新七い時代情勢の中で「皇国を維持する」\ことであらだ・。その1ことはまた√「世界万国と並立する」とか、「世界万国と対峙する」という言葉で語牡れた。ダノし力ゝし言うまでもなぐ、こレの様な認識は、時代の認識であって、木戸にのみ特有のものでは勿論なかった。づしかし、∧それにしてもこのキーワードを原点として木戸の政治発想は目的合理主義的に展開された。そして。幕末動乱期に恩師古田松陰から実体験的に深ぐ学んだ、公明正大で「誠意」\ある政治を常時目ざそうと心掛け、なおかつ空理空論に走る事なく√政治・社会の現況を見据えながら発想を脚色する現実主義を同時:に具えていて所に、木戸の木戸たる所以があったといえるのである。「理念的政治家」の色彩は徳富蘇峰が指丿
 摘したように強かったが√単純な理念家ではなぐ、明らかに誠実な現実主義的目的合理主義者であっ
 た。 木戸は、「維新の目的」(「維新之宏謨」「維新之皇謨」卜を先ず明確に認識しなくては政治行動は始まらないと強調する。例えば√「版籍奉還の建言書案土(『木戸文書』\8:巻、2ノ5頁)ダでは、つ次のように表現している(註1\)レ曰\く汀抑や新之政だ:る\無偏無私ぐ内は普く才能を登庸し、専ら億兆を安撫し、外は世界各国と並立し、以て邦家を在置富岳之安JC=2し5頁)◇とノまた、伺年卜1月の「賞典禄給与中止の建白書」(同前書、7 6~7頁)では、汀抑十新之御盛挙は、内億兆(国民の意)をして安撫、其処柴得章しめ、外世界万国と並立する之叡旨仁して√誠に前途之目的、不容易。明治政府と木戸孝允=(福地) 91
新之御盛挙は固より希有之御成業と雖も、必(畢)\竟内国の事に係わり、ト自今海外に関渉七て√為将来根軸を被為定候は√真に至重至大、未曾有之御事に=し七、前途賓に悠遠jと奉存候よ今日内治之
穀難に際し√挺身命、報邦家候は、元々志士仁人之所不避に可有之√就而ぱ速に今後天下づ致、対海外候而皇国之基本確定仕候事い至切至要と奉存候」と述べた力八ごれなど=は維新の目的表明の典
型的文型である。 3月1 4日に天皇が公卿・諸侯以下百官百僚(政府高官)を率いで天神地祇を祀り、j国是5ご箇条を誓約した所謂丁五箇条の誓文」に√目日米の晒習を破り天地の公道に基くべし丁(第4条)ぐ「知識を世界に求め大に皇基を振起すべし」(第5条)と有るめは、△先けまで破約攘夷の急先鋒だらた長州藩のリーダーである木戸が特に深く関与した所である。ところで、明治期10年間の木戸の政治行動は、明治4年11月/から6年7月=までの米欧回覧の一年半を中に挟んで√目的を追求する方法論の面に大きな変化が認められるのである。:戊辰戦争から廃藩置県まで、木戸は朝藩制的割拠体制の打破、中央集権制の採用に当面の\目的を設定し七√命を懸けて運動した。また、こめ時期の木戸はミ目的を目指すのにやや性急亡√「開明官僚」……の首領
の位置にあった感が深い(註2)。  ところが、米欧回覧から帰うた後の木戸は、明らかに意識的に新国家建設に漸進主義を選択した。
そして、当面の目標を立憲政治導入の基盤構築に設定して、併せで国民教育と民力涵養の必要性を極力主張したのである。            まず始めに、明治初年における木戸孝允征韓論から見て行こう。    (2)木戸の征韓論   京都に到着して参与・総裁局顧問を拝命した翌月、慶応4 (1非\68ダ)年2ゲ月√木戸は朝廷/に「至正至公之心を以て七百年来之積弊を=変し、三百諸侯をして挙而其上地人民を還納廿しむべし」と建言した。維新政府要人の中で、木戸が初め七万版籍奉還士の必要を公言jし‥だの懲ある(『木戸松菊略伝』205頁)ノ「版籍奉還且の構想は、嘲藩的割拠体制を打破して\「皇国のア致ヤ定丁
「朝廷政府うの権力帰−」廃藩を目指す第一着手であるく(註(3)。また同月、木戸は外交方針が開国和親に確定したからには、朝鮮ぱ使節を派遣して新しい国交を樹立すべきであること建言したのである(同前書23し4頁)6  しかし、犬当時は戊辰戦争の最中で維新政府には、木戸の二つめ建言を取り上ノげる力量は無宍弧◇二般的状況は整らていなかった。それどころか、「版籍奉還め建言」\は外部に漏れて、木戸は激しい
反感に晒され、命まで狙われたのであるよ三年後、4年7月廃藩置県詔勅煥発め日の『日記』尚に、「余御一新の際、諸藩京都の戦争よ町して東北の戦引きっづき漸一年を経で天下平定、然して藩々互に肩を比し、薩は長を見、上は肥を窺、犬各皆日本内の事に着往しい遠ぐ宇内・の大勢を観し、世界万国に対立するの対策なし。且、朝廷微力にして、各藩各心、或は攘夷と云い、或は開国と云い、当日是を統一する遠望なくんば、天下の瓦解、‥日を刻し待つぺしよ依て、余郡県の策を定め、三条公、岩倉公に建言す。決して不可行の言あり。ス、僅々の伺志に相謀、或は黙して不語或は期難。故に余−の謀略を設け、今日諸侯の封土皆朝敵徳川より授与すレるの姿にして、天子の璽章を不見。於干此は益明大不正名分ば如何立天下哉と。。依て版籍奉還の説を主張し、説薩ノ其より土肥に及び、終に略朝廷に奉奏せり。於干此k又種々の議論満干天下よ万世、開目して余を欲殺の説不少、同藩同志の士と雖も、醸危疑、誹膀を聞ぐ、自としてなきはな七ノ朝廷も亦決之難し。終に六七月に至る。余亦必至此事を尽すと雖√事不成して受害ときは、ニ必大事の不成を憂ひ進退出没、此機宜を窺ふ尤も心思を労廿り」と述懐している(註4) ただし、当時の木戸自身が、これらめ建言が直ちに採用さ=れる七は考えでいなかう\たのも事実で
92 高知大学学術研究報告 第44巻(1995年)人文科学ある。2月ニ12し日付でぐ兵庫に勤務(参与・/外国事務掛兵庫駐在)ごする後輩の伊藤博文に送9た手紙に、木戸はこう述べている。十丁爰元て注/・京都)之光景十分気には人不申候。一昨年、御国之戦争(注・四彊戦争)容易に相済候故後之一新十分に参り不申様之気味に而、犬此度之戦争(戊辰戦争)しもいづれも存外に容易に相片付候に付、上下とも骨に入らざる気味不少、諸事下流に而已随ひい目前之處にばかり力を用ひ、永遠之大策とては更に不被相窺、才甚以不平至極比御座候得共√傍観出来不申に付、乍不及、陰とな
り日向となり相尽し申候得共、\兎角徹上仕りか\ね申候よ‥永遠之策は常人之y目にも不見事ばかりに而、花々敷事とては更に無之、当季之事は形而已を見で梧馳せ√其実を推し候人は、し甚だ少な=く、政務第一之会計・内国両事務等も繊一両人之人有之候而已に而√実行之處容易に相挙り兼、付而は肝要、軍防等も自=ら目途不相立、多くは只々人数調べ位之処におと丿まり、ノ宇内之大勢を察し、我力を顧み候而、前途不朽之規則等に心を用ひ候人柄は尤少く、段々建言仕見得共、思ふよふにも至り兼、
慨嘆罷居中候。=何欺よき御工夫ども御座候は御教示偏に奉願候。根木確乎不仕とぎは、決而枝葉不盛道理に付、只是而已に心をもみ申候。‥今日朝廷之御為と思ぴ候人、多くは枝葉へ而已尽力仕もの相勝ち候に付、益根本は危く相成候道理に而、………此勢にて相流れ候ときは、日本中には、?当分相反し侯もの無之ども、j終に一統之民心不平を抱き、犬随而海外四方へ信を失い、不可侍ものと見透れ候様相成候ときは、トいか様の大脆害出来候欺も難被図と苦心に苦心を重ね申候且(『木戸文書』3巻、
13〜1犬4頁)。  戊辰戦争が維新政府側にとって思いの外有利に展開している為に、下維新の且的」が曖昧にぼやけて仕舞いそうで/(上下ども骨に入らざる気味不少)、国際政治の趨勢を見極めて、必死になうで
十年、百年先を見透して、厳しい国際環境に対応出来る新しい国家構想を立てようとする人物が維新政府の中には見当たらない。枝葉末節の問題に気をとられ√新国家の根本法規し(「前途不朽之規則」)等を構想しようとすトるような人物は居ない、、<と慨嘆しているのである6‥二つの建言は、政府に参画している人々に内外政治の大局に着目させるための一石投下であると言う訳であるよ
 だが、4月L1日以後も旧幕府側残党の反抗は収まらずく奥羽諸藩の新政府不信は好転せず、/戦争は継続した。そのころ、木戸孝允が薩藩重役の小松帯刀に送っノだ書簡には、注目すべき発言がある。曰く、「於愚存は、今日余賊再沸之折柄に付候而社屹度官軍之気を起し一掃に及び候而√然る後、被仰出候面、不晩事欺と奉存候。御二新に付確乎御基礎之相据り候事、\戦争より良法は御座無候。太平は誓て血を以ての外√買求不相成ものと愚考仕候。乍去、今日之姿に而嫡久候而は天下大疲弊は、眼前に迫り、必外夷之軽侮を受け候而已ならず4髄面大瓦解と奉存候。目前之安きを求め候得は、・自ら皮表之治療に馳せ、筋骨より復するの手段に候得ば、頑毒を発表七て、がり尽し候之両手段外有之問敷歎。付而は、今日徳川氏之一時気安めを計り候様に相饗き候御処置、自然も被為在候而は、却而前途之為めいかy哉と奉存候」(閏4月9日付√『木戸文書』3巻√62頁)と。徳
川を厳七く追い詰めるべきであるとの主張が趣旨だが、大目標を明確にす右為に「戦争より良法は
御座無候」と言っているのである。さて、それから半年過ぎた明治元年9月、戊辰戦争は最後まで激七く抵抗した会津藩の降伏で峠を越した。七かし、維新政府の政治威信は一向に高まらない。:政府の組織・人材配置も不安定なまま推移している。そうなる原因は、維新政府の側にづいた有力な諸藩が、戊辰戦争の功績に誇り、自藩の利益を転々ごばらばらに主張し始めて、それぞれが勝手に自藩の軍事力強化に奔走する有り様で、政府の統制に容易に服そうとしなかったからである。討幕かち維新政府創立において最も大きな功績が有る薩摩i長州両藩ですらそうだったのがから、他は推yして知るべ七である。特に、出身母体の長州藩が維新政府の指令を軽視するという状況は、木戸にとづて悲嘆の極みであっだ。この
ような悲嘆すべき状況が出て来た原因は、「維新の目的上に対する多ぐの人々の認識:が曖昧だから明治政府と木戸孝允(福地) 93
であると、木戸には思われた(註5)ノそして、以上のような憂慮すべき状況は√年を越して明治2年に入っても一向に好転する様子が窺えなかったのである。 そこに木戸が「維新の目的卦を天下に周知せしめよう/と着肝しためが、/いわIゆるト「征韓論」である。既に触れた通り、元年2月に木戸は朝鮮に使節を派遣して新しく国交を開レくよう建言したよそ
の後、政府は幕府時代かjら朝鮮と特別の関係にある対馬藩を仲介者にして、万朝鮮に国交を打診させた(同年3月)。しかし、当時過激な攘夷主義を執っていた朝鮮政府=は、つ日本は欧米列国の威圧外交に屈服した情けない国であ=つて、その様な敗北主義者(洋夷の走狗)と国交を修復するj意志はない、また対馬藩主が朝鮮政府に送った外交文書に「皇」や「勅」という=文字があったが、日本は朝鮮王朝に対して皇や勅を使う立場にはないので非礼である、というのが朝鮮の反応だった/(元年12月中)。朝鮮は日本を侮蔑している、無礼であるとの不快の念が戊辰戦争が終わったころから、ぽっぽつ世随に蔓延し、だれ言うとなく「征韓論」が出て来たのであるレ木戸=はこの状況を活用て、「維新の目的」認識強化の契機にしようと考えたのである。  元年12丿月1ぺ日、木戸は岩倉具視に下征韓問題」と「版籍奉還」の即時実行を進言した。『木戸日記』には、丁速やかに天下の方向今一定し、使節を朝鮮に遣七、彼の無礼を問ひ、彼若し不服のときは、鳴罪、攻撃其土、大に神州之威を伸長せんことを願う。し然る時は√天下の晒習忽一変して、遠く海外へ目的を定め、随て百芸・機械等、真に事実に相進み√各内部を窺ひ、人の短を誹万り、人の非を責、各自不顧省之悪弊一洗に至る、必ず国地大益、不可言もめあらん」べ1レ巻、60頁)と認めてある。
版籍奉還問題の方は、状況は相変わらず厳しかったものの、来春早々\薩長土肥↓藩主連署上表を行う手筈が大久保利通板垣退助らとの間に略付きつつあった。それにも拘わらず、木戸は丁征韓問題」にも略同様の比重をかけて、岩倉に進言しているのである:。なぜ、千征韓論」にそれ程打ち込んでいたのか;4その理由をもう少し追求して行こう。木戸は、明治元年の暮から翌2年の正月にかけて盟友で軍事の元締めを精力的に勤める大村益次郎に盛んに「征韓論士を説いて、賛同を得ていた。大村に説/仁「征韓論上の動機も不満足な現状打破の方策としてでありゝ・・・戊辰戦争終了以後√却って益々曖昧に成り行くト「維新の目的⊥認識の明確化であった6そして、2年の元日には、相当詰めた話し合いが成された模様である。大村に送った
書簡は、以下の通りである。 「(明治2年)正月元日、粗御相談仕置候後も、尚情将来之大勢を推考仕候処、今日之人情に面相移り候時は、大政一新之御趣旨も乍恐いかy相成可申欺。元来御ブ新之御一新たる所以は、皇国を御維持被為遊候而こそ、始而御名実相叶候訳に御座候処√哀哉可浩歎は、J宇内之大勢に対し候時は皇国之急、昨年より今日に迫り候処、唯目前之一平定に而、上下とも其理通徹仕兼、多くは今日に大安堵仕候而、前途大興起之目的更に相窺はれ不中。尤春来、徳川氏の頭面を撃挫き候は大政一新におゐて不得止之一条理に而、是而已に而大政一新は相済候ものと相心得候而は、天下億万蒼生之大罪人に政府は組成申候1(『木戸文書JJ3巻、230〜3∧1頁』∧と厳しい危機感を述べる。次いで「前途之目的相窺はれずと坤候も、天下之諸侯も自分々々こは兎も角」も√其藩々々に於いては巧妙之念勃々に而、諸藩挙而賞論之事而已之外は、議論も無之、其上旧幕府之時よりも自然と\騎気は相募り、藩力を以我儒等相応に朝廷は中立、名義と欺名分と欺蝶々申候も、多くは声而已に成行、宇
内之大勢を察し皇国をして万世維持仕候など申辺之所作ぶりは毫も相見不申、:唯々已に利を引候様之風習に相移り、却て人の非は探・り、人之能は妬み、人の悪は怒り√元来日本之人、規模狭小と申処の可有之候得共、全其而已にも無之、大道之衰たる処も可有之、第二太政官に於いては肝要なる会計之目的も今に相立不申、是亦今日之姿に而ぱ日本も太政官も会計に而つぶさ=れ候様相成可申、(中略)如此事に而は、天下之風俗を一変候は所詮六ヶ敷相考申候。依而益切迫に存込中候は、つ軍94 高知大学学術研究報告丿第44巻(1995年)人文科学
務に於て大方略御一決に相成、先函館之¬条(注一榎本武揚らが箱館五稜閣に立て寵もり、明治2年5月まで抵抗七だ)御平定に至候は卜〉海陸之処於朝廷梢御備被為立ミ唯偏に:朝廷之御方を以、
韓地釜山附港を被為開度l是元より物産金銀之利益は有之間敷k却而御損失=とは奉存候得共、皇国之大方向を相立、億万生之眼を内外に÷変仕、海陸之諸技芸等をして実着に走ふしめ、他日皇国をして興起せ七め、万世に維持仕候処、尚此外に別策は有之間敬丁云々と。木戸の丁征韓論」を支持し、彼と連携して西洋型の軍事制度の基礎構築を積極的に推進していた
大村益次郎が、十京都で西洋化を嫌悪する長州藩士らに襲撃され重傷を負ったの、は、明治2年9月4日のことであった。大村の負傷は一旦快方に向からためだが√冬心入り=悪化、こめ年1/1月5自に他界したのである(4 y6歳)。最も親密、有能で強力な政友を失らだ木戸の悲嘆は甚だ深かった。
東京で危篤の通知を受けた木戸は、『日記』(1巻、2∧9△O〜9トi頁卜に「大村の」容体を聞き(中略)実に死生不可知、不覚大歎すノ大村は、春以来共=に力を尽に昨年も亦前途の大策を論定する事多し。彼剛腸にして且心切、毫も表裏なし。実に当此際√尤益友たるを知肛交情甚厚し。尚、前途の事も共に相憂ひく大いに後来の策を約せし事不少、今日此左右を聞き、実に浩歎失力√不覚悄然たり。今夜夢寝の間、屡対大村て相語:る。j覚て又愁然、不可言之心事なり」とあるレ翌日訃報に接して「実に痛嘆残意、づ悲極て涙不下、茫然如失意」(↑1月↓2白日の条)。木戸にとってごの凶変は、政治的にも個人的にも甚大な損失だっ/たて註6)。木戸の受けた衝撃深さは当然だった。しかし、木戸は大村他界の悲七みを乗り越えレて、:三条実美、し岩倉具視両大臣(註7)に「朝鮮使節」を執拗に迫りミ翌12月3日、丁明春支那・朝鮮使節可被差越候。し右者重大レ
事件に付、し即今より交際規定古今斟酌、篤く取調可有之旨」(『日記』)/どの命:を受けた。 木戸は、その後熱心に支那・朝鮮使節の準備に取町組んだこ\と〉は、∧彼の『日記』十に明らかでおる。
しかし、・使節発令の丁度との頃、出身地長州藩で脱隊兵騒動ノ(2年iし2月〜3年61月)レが起こうたため、そjの鎮圧に追われることになった。うこうしているうしちに、/3/年6月に清国の天津でフラ
ンス人宣教師殺害事件から仏・英・米3国連合軍:の出撃が伝えられ、使節派遣どこ‥ろの状況で/はな、いとめ政府の判断で、自然木戸の支那・朝鮮派遣は無期延期になつ\たので:ある。
 ダ翌4年になると、御親兵編成問題から廃藩置県断行へと政情は急速に変化、木戸は朝鮮に使節として赴くことになったが、万年!O月には岩倉遣外使節団の編成が急速に具体化して、木戸も副使として参加するごとに転じた。岩倉使節団が横浜を出帆したのは/4年IT月T2日であるノしかし、木戸は国を離れる直前まで朝鮮外交に執着しでいたことが、彼の白『日記Lから分かるのである。1月7日の条には「(前略)外務省に至力=又参朝す。丁朝鮮へ着手する戊辰以来之¬→策√終に欲果√
頃日米国の云々あり。山県狂介等も関此論。依て、今日前途の大勢を諭し、公議を推し、く禰朝鮮の交際成否を決し云々よ(2巻、118頁卜と、9甘め条にはイT寸字西郷を訪ふ不在。直に岩卿宍に至り、条公、西郷、大隈、◇板垣等に会す。且、朝鮮は着手の順序を論ず丁(同頁)とあるの七ある。
ダ何れにぜよ、/木戸は米欧回覧に出発する直前までで「前途大興起之且的」を明確にするために外交的緊張感を極限まで高めて民心の緊迫感を強めなくては駄目だ古認識/していた。トそうでもしない限りぺ寸天下の晒習、忽一変して、遠く海外へ目的を定め、随で百芸・機械等ミ、ノ真ぱ事実に相進み、各内部を窺ひ、入の短を誹り、人の非を責、各且不顧省之悪弊十洗に至」〉(『日記』、元年1し2月1\4日)らしめることは不可能に近いと木戸は思っでいたレ強度の対外的緊迫状況を創出七、その衝撃
を活用して政権・軍権(政治権力・軍事権)の朝廷への統一、内政め更なる大改革(版籍奉還か廃藩に至るまでの抜本的改革)を実行しなくては√幕府を打倒:しで維新政府を創設した意味がない
と、木戸は真剣に思い悩んでいたのである。しかし、木戸の下征韓論」への拘泥はダこごまでであった。米欧回覧中に、木戸は熱心な内治優先論者に変身しただめである。木戸における寸征韓論」は、横浜出帆の段階で自然立ち消えの形になったのであ6 明治政府と木戸孝允(福地) 95
  (寸)日本史籍協会編『木戸孝允文書』東京大学出版会。以下、本文中に『木戸文書』/と略記して、巻数、頁数を示す。 二2)木戸孝允は、普通教科書的に「理知的な開明政治家」と言うように紹介さ‥れる:y近代日本史の中でので開明」しとは、「西洋(欧米)ダイヒに積極的な姿勢をざる丁ことを指す語彙と七使こ用されて来た。□しか七実は√「開明上とは至っ七曖昧な意味内容の言葉であくって、政治家なり思想家」の特質を指し示す用語として、これを使用しようとする者は、先ずその概念規定を試みなければならない。
因に、ある国語辞典を緒けば、「開明」〉どは「知識が開け、文物が進歩すること」(林大編纂『言泉』)とある。木戸孝允を丁開明政治家」と単に評価しただけでは、レ彼の政治家どしての真価を良く捕らえ切ったと言う訳には行かない。なぜならば、「開明」を「西洋化上に置き換えて見ても、丁西洋化」は彼の政治目的を追求する上に効果的な装置であると観念されyたのであっで、し木戸の政治目標が「開明上そのものに置かれて居た訳ではなかったからである。そのような訳で、木戸は√外交・軍
事/・財政の分野に新機絵を打ち出せる人材を積極的に推挙した。西洋流の宍目新しい人材抜擢が趣味であると、ト陰にLまでされたぼど、人材抜擢に意を注いだ。j伊藤博文井上馨、上人隈重信√江藤新平
らがその代表だが、従って木戸は、急進的「西洋主義者上の頭目的存在に見えたのである1。しかに明治?年以降、木戸は曾て自らが推挙した「開明官僚上を厳しく批判する様になる。それ\も、彼の目的合理性がしから七めた事は、:第3章で明らかにする。
{3}「皇国二定・皇威海外伸長」は、『木戸文書』3巻、9 8頁。 =
 (4)日本史籍協会編『木戸孝允日記』ダ2巻、70〜71頁、:東京大学出版会。以下、本文中に『日記』∧と略記七て、巻数、頁数を示すレまた「版籍奉還建言の自叙上(『木戸文書』8巻、12頁)にも略々同様の趣旨の回顧がある。 (5)明治元年1\O月4日付大村益次郎宛書簡(『木戸文書JS巻、15 7頁。』に「御国(長州めごと)上も兎角小権を以大権(朝廷のこと)を犯し候弊、自然と相顕れ√実に御同歎之至に御座候。
此往自然もかく相成候而は積年之事も冰泡と相成りト(中略)\苦念悲痛只夕此の事に御座4院」十とあるムまた『日記』し1巻、15上8頁、元年12月12日の条に、「訪大村、軍務の事を相論寸。余で常に思ふ。速に会計の基礎を定め、軍務の基本を立てんと。而七て√その会計論徹上する甚だ難し。
(中略)此目的不相立ときは、大政一新も只幕府の頭面を打撃せしまでにて、ご終フに皇国維持の目的不相立ときは、大政一新も旧幕め政事も五十歩百歩、/多年数千の志士・壮士を殺し、至于今日、其の何事たるを不知也。然るに、世人は不及言、勤王の藩√未是意を不解\もの却て多七。実に不堪慨嘆也」。 (6)歴史に寸若しも」は禁物と言われる。犬しかし、消去された可能性の生き残った仮定を立ててみるのも、歴史考察には時には有用である。若し大村がこの段階で=凶刃に倒れる事が無かったならば、それ以後め明治政府部内の勢力状況は、歴史の事実と大分違らたものになっていた可能性は高ニく、また木戸の運命も柑当歴史の事実とは違ったもめになっていたと言えるのである。
(7)三条は明治ご2‥年7月から右大臣を勤め、4年尚7月太政大臣に昇任√岩倉は当時大納言で右大臣に昇任したのは4年10月√当時大納言は岩倉、徳人寺実則、鍋島直正の三人であった96 高知大学学術研究報告ノ第44巻宍………(1995年)\人文科学
3 米欧回覧の頃=軽薄開化家非難     (1)漸進主義       丁宇内之大勢上「前途之大目的上等は、木戸の議論の常套語だうた。丁支那・朝鮮使節」のこども、内外の難問噴出で無期延期となった明治3年夏ミ木戸は矛先を変えて汀洋行上の希望を表明し、実現に向けて努力した。当時、欧州ではプロシアとフランスとの問に戦争が勃発した。木戸は普仏戦争の情報に痛く刺激されゝ。・。是非とも欧州に赴いて情勢を視察したyいと熱望したのである。しかし、当時政府部内=には難問山積して、特に民蔵分離問題とい/う政府基幹部編成と重要人事配置に係わる
混乱が起こっjて、木戸と大久保との関係が険悪にな町、ニ政府全体が大ぎく動揺していたよ=この困難な時期に参議木戸孝允が国を離れるなどはとんでノもな=いとの反対論が巻き起こり、右大臣三条実美大納言岩倉具視らは必死になって木戸の洋行断念を工作したのである。 丁度この頃の『日記』犬に「二字、=岩卿へ出、=時事を陳諭し、基本の大目的を以て大いに天下を誘導七、ご方向を定めんごとを欲す。今日、宇内之大勢を察するときは、其急不可言尽√不忍黙観、依
て愚策を建言する数件√聊報今日之志也」(3年8月3ニO<目の条、犬1巻、379頁)\と見える。 こ:れなどは、木戸の常套的言い回しである。 しかし、明治4年7月、廃藩置県は断行され、予想外に波乱もなく、状況好転、条約改正打診と新国家建設の調査研究の為の岩倉遣外使節団の編成に至った。木戸も使節団副使と七で洋行することになった。以前から希望していた「洋行」は、こうして現実のものとなった。ト4年11月に横浜を出帆してアメリカ合衆国を振り出しに、イギリス√プランズ√オランダ、下イヅ、スイス、一才4
ズトリア、ロシア、イタリア等西欧諸国を巡覧して、大木戸は椎年7月りこ帰国七たのであ/る。ト使節団編成事情や巡覧の内容等に関しては、関係文献に譲るとしで、トこダこでは米欧回覧出発直前から回覧
の頃の木戸の政治意識に現れた特徴を検討したい。
 丁宇内之大勢上に追いつくために、朝藩的割拠体制を≒刻も早ぐ打破して中央集権的新国家を建設したい、既に再三指摘したように√「皇国を¬」定十致」‥「萬民を安撫工させたいとは、木戸の熱烈な希望であった。戊辰戦争の最中から岩倉使節団の十員としで海外に旅立つまでミ木戸は、政府部内では改革派若手官僚の頭目的位置に立って所謂丁開明政策」の推進を指導あるいjは支持したことは、先に述べた通りである。そして√対外問題では、国内改革推進対策的な性格の濃厚な「征韓問
題」に取り組んだめである。しかし、そのような木戸ではあったが、元来彼は軽薄な急進主義者ではなかっ犬。例えば、明治元年12月の「学校振興の建言書工(『木戸文書』8巻、し78〜79頁)はぐ木戸が本来資質的に
「漸進主義者」であることを教えてくれる。     「熟々将来之形勢を推考仕候に、一般之人民無識貧弱にして終に今日之体面を不一変時は、讐二三之英豪朝政を補賛仕候共、決而不能振起I、全国之富強‥して勢王政恚亦不得不陥専圧。元米国之富強は、人民之富強に七て、一般之人民、無識貧弱之境を不能離ときは√王政維新之美名も到底属空名、世界富強之各国に対峙する之巨的の必失其実。付而ば、万一般人民之智識進捗を期しぐ文明各国之規則を取捨し、徐々全国に学校を振興し、大に教育を被為布候儀ぐ即今日之一大急務と奉存候。今日より端緒を被為開候とも、固より不尽多少之歳丹は√不能挙其実は当然之道理に而√勿卒文明各国之形様而已を模倣いたし候は、必良図に有之間敷、犬却而国家人民之不幸を醸成候も難計と奉存候ゴ(元年1 2月 2日)と述べている。そこで、ごこで確認しておきたいもう一つの点は、万国対峙の目的に向かうには、近代西洋的な国民国家を建設する必要があると、木戸が自覚している点てある。この建言書の冒頭は「王政維新、し来出一年。東北之反徒、尽伏其罪。従今、勉而武政之専圧を解き、内は人民平等之政を施し、外は世界富強之各国え対峙する之へ巴食、断面毫も不容疑儀明治政府と木戸孝允ト(福地) 97奉恐察」(同前建言書√7ダ8頁)とある。  さて、もともど丁漸進主義者」の資質を具えていたが、上それは時間の推移と共に彼の政治的思考
法の中心軸に成って行ったのである。明治4年7月1こ4日、木戸が久しく待望してきた廃藩置県が断行された。その直後;、政府組織の改革が緊急重要課題として浮上したい参議木戸孝允は制度調査委員会議長に就任した。こ昨とき木戸は、「立法・行政に関する建言書上を提出したが、そこには「漸進主義者」\としての本質が大きく」顕現したJこの建言書で木戸ば政治の世界ごで成果を挙げるには漸進主義に拠うて行うことが安全着実であると、大要次めように表明しでいる 「方今、政治の体裁、其紀綱の条立せざるより、廟議に於て再び復政体をー一変し改革を行ふの議
あり:と聞く。事体苛も全州の安危、全国の盛衰に関係するを以て、ダ今之を熟視し、\之を測考し、之を忖度し、論理実際の両義を推で、し其是非得失の要領を記述す。夫れ、歌体制度は、容易に改革すべき者に非ずノ事状止を得ざるの弊害起こりて之を匡済するの改革を行はざるを得ざりとせば、須シく漸を以て其実際の施行に及ぶを眼目とすべし。仮令一朝涼に変七、頓に名称を替ると雖も、其実際=の履行に至りては、必ず有限の時日あり。必ず前後の順序あり。然らざれば、其実効を奏するの斯なく、コ実務の験を識るの時なく、改革の益なくして、改革の害あ基事√諸を掌に指すが如七。之を以て見れば、政治は実地に著意して其妨害なきを主とし、而して漸を以て之を挙行するに如く
はなし。抑も丁i:。政治の世に行はるVや一日も停止すべき=に非ず。猶水の下流に逝く/須央も之を察塞す可からざるが如し。其際、利を起こし害を除き善を奨め弊を去るや√各々其実際に応じて順序を設け、万以て之を鍛正し、漸く其化域に至らしむべしよ其期の遅速は独り政府処分の当否に依る而已6凡そ海の内外を論ぜず、各国政治の沿革して良法善政を得るを見るに、皆此法に由りて施行廿ざるはなし。若し実際の得失当否を顧みず、涼に政体制度を変革し、徒らに名称に従ふて、其新政新法を一員に施行せんと欲する者は、大概其弊害を増加して、其利益あるを見ず。仮令、万全の新法ご最良の新制なりと雖も、猶徒法虚名に属す。況んや廟議未だ万全の地に及ばず、\最良の度に至らざるに於てをや。=故日、政体制度は、容易に改革すべき者に非ず。事状止を得ざれば、須ら丿く漸を以
て其実際の施行に及ぶを眼目とすべし」(『木戸文書』8巻、53〜5し51頁)。 明治元年から廃藩置県に至るまで、維新政府は遠大な「維新之宏謨(皇謨)」を目指して試行錯誤を重ね、政府瓦解の危機に瀕しつうも、明治4年半ばには廃藩置県まで漕ぎ着けて政府危機脱出にたどり着いた。その間、「宇内之大勢」に追いつく方向性を確立しようと木戸」は四苦八苦を重ね
た訳で、ぞれらの経験が木戸をして丁漸進主義士を正面に掲げさせるい至ったと言うことが出来そうであるJ4年8月28日付で伊藤博文に送った書翰かおる。この書簡には、=その辺の心情の変化
が表明されている。  「必竟人世は四苦八苦、古人之言宜也と相考申候。=そして此四苦八苦も亦決而、又狼に難被洩も、亦其中の一苦也。依而、他へは呉々も御容赦よ只々将来人民之為に役人得手勝手之情実を以、無限之患害を残し置候は、力の及ぶ丈けは防禦之方略相定居不中而は在職中は一日も不安事と愚考仕候。余には別之一念も無之、此辺御合置可被下候。人情之軽薄も反覆も不珍√今更蝶々不申進候。乍去、弟も只御客にも女郎にも√必竟調和不致而は其間之損費不容易と数年間、只管仲居之周旋役を勤め、灘忍を忍び今日までこ白も愉決と思ひ候事も無之消光仕候処、几最早此際は去而可也ども奉存候」
(『木戸孝允文書』4巻、275頁)。 
  (2)「軽薄開化之弊害」、軽薄開化家非難 万この頃から木戸は、自分の都合で得手勝手に新規の政策を打ち出しで憚らない、そのような軽薄才子たちが国を殺(あや)める原因になるであろう古√親しい知己に屡々そ七て熱心に主張するよ98 高知大学学術研究報告∇第44巻 ](1995年)人文科学うになる=(註1)。そして、「宇内之大勢」をよく理解して丁皇国興起之目的」「前途維持之目的」を的確に見据える事の出来る、lづま匂大局観を持づだ新人材の育成レ・\養成が急務であると盛んに主
張し、それを実行しようとする=のである。  要するに、木戸は、漸進的に着実に丁西洋化」………を目指すべきである√と=ご強調七始めたのであ=る。若しも、国家\・社会の現状=文化・慣習・風俗・人情を無視した=、図式的観念的な改革が強行さ雅れば、jそこには多くの無理が生じ、結局は国家や社会の大混乱を醸成して√維新変革は大失敗に終ろうと、木戸は判断したのであ/るレこの時期以降、十木戸は事毎に∧下軽薄開化之弊害上を口にすJる=ようにな肛、米欧回覧以降に廓いては、それは木戸の常套語になった観があ=る米欧回覧出発直前に√「誠に日本も御¬一新前後、甚議論/も多端ぐ=此際統二之略無之而はと種々苦慮も仕候処、又至今日候而は、コ開化々ヤと各利弁を以互に僥倖而已を相窺、人々目ら軽噪浄薄に柑移り、忠義仁礼之風、彿地候勢、十年之後、=真に如何=と苦慮煩念此事に御座候ノ是又不得止之一時勢とは相考候得共、屹度前途維持之:目的無之而は不相済事と只管煩愚案候。\(中。略)\十年後にも相
成候はぺ自ら又人才も出来可申、其間之処、実に開化之大弊出来可致と是而已掛念至極に御座候。痩毒之もの欲駆病、むやみに服薬いたし候而、終に病毒は相去り候と心、また却而毒薬之為に艶れ候例不少、此間之処真に÷大事と奉存候上(4年上L月丁O日付、丿在欧中め後輩青木周蔵宛書簡、『木戸文書』4巻、3 1 8頁)と述べて、軽噪/・浅薄なj開化主義が新国家形成の途を混乱させる要因になると厳七い危機感を表白しでいる。また\「今日之勢、ケ開化之進歩こ¬日を争ひ候訳に而、独立之権利を持し候には中々則今之有様に而は、所詮無覚東候得共√今日洋学家之風多くは忠義仁礼之風を払ひ、前途只此弊而已を残し候様成行候而ぱ、犬万世之遺憾と甚苦案い右し居り申候Tj『5年2=
月11日付、杉山孝敏宛書簡、丁木戸文書』4巻√3 4 0頁)レと言い、軽薄浅薄な文明開化熱が民
情混乱の原因になると深く憂慮している。そして、汀軽薄開化之弊害」を回避させるためには、中長期的な視角から教育制度の整備を重視しなくてはならない七、木戸は主張したのであるよ「全国之風を察七√全国之弊を顧みずんば、国家之保安、元より難し。此風を改め、此弊を矯る、学校を以急務とする之外、他な七。\我今日之文明は、真之文明にあらず。我今日の開化は真之開化にあ‥らず。十年之後、其病を防ぐ、只学校之真
 学校を興すに在ごり。(中略)国家永安之長策は、凛々賢才世出するとも、一般に忠義レ・=j仁礼之風起り、確乎不抜之国基不相立候而は、千年を期し候と\も/国光を揚=る事不可知、風を起す基之確定する、
\只人に在り。其人を千載無尽に期す、真に教育に在る而已6ニ決而今日之人√米欧諸洲之人と異なる事なし。只、ト学不学にある而已」(4年T2月寸7日付、杉山孝敏宛書簡、『木戸文書』4巻√:32
0頁)と、教育に並々ならぬ関心を払ったのである。ざて、4年1 1月比出国した岩倉使節団一行は大使、副使以下総勢およそし10△O人、各省を代表する理事官、書記官が多数を占めていた。j彼ら才子たちの主だづた者に、:欧米文明を手放しで高く称賛する一方で日本の歴史。ニ文化を卑下して憚ら=jない、言い換えれば土[西洋化]△の行き過ぎ・、丁文明開化」気触れが目についで、木戸は強い不快感を持うたよう首ある。サンフランシスコ=から在東京文部省の杉山孝敏に送った書翰に∇「大いに可歎は、今日丿開化先進め人は、漫に米欧文明之境を賞し、我の百端備らざるを説候得共、其心多ぐは罵る記在而く……歎ずる)にあらず」(『木戸文書』/4巻、320頁)と認めている。              岩倉使節団は事情があって米国に半年間の長期滞在となづた。木戸らは、ワシントペ∇ボストン等の文物を、特に、製造工場、学校等をつぶさに視察した。……そして、新興国アメリカめ鉄道、機械制工場の壮観に打たれ、ま/た国民男女の教育程度の高さ、延いては民度の高かに深く印象づけられたのである。jそして、離米直前に、これから渡るI欧州諸国:の繁盛振りに思いを馳せで郷里め柏村信に送った書信に、「私共も不図仕合に而、米国は長滞仕候処√漸近日より渡欧仕候。十実に当国之明治政府と木戸孝允(福地) '99
景況に而も、欧州形勢想像仕候へば実以繁盛なる事と被相察候言乍去√其元因一朝一タ之事にも無之、積歳して今日に至り候○¨。付き而は、本朝のなま開化に而、只管名利に而已相馳候勢を窺候而は;、
後来之処、杞憂なき能ぱず。\且又彼之教導もまた密にして、田舎に至るまで行届候ものに御座候。;然処、本朝儒も仏も耶も何も空物にて、只開化々々と名利之開化而已に限り。候は如何なるもの欺、、
実に危く被相考」『5年7月1日付書簡、丁木戸文書』4巻、3:66頁)◇と述べたのである.ところで、ここで確認して置かねばならないごとは、大木戸孝允が、丁我今日之文明は√真之文明
にあらずノ我今日の開化は真之開化にあらず上(4年1 2月T7∧日付√杉山宛書簡)こと言っ\ていることで明らかなように、彼は間違いなく丁近代西洋化」の肯定者である√「西洋化土論者である、しという点てあるレ但し、「欧米之至千此候も中々ニ朝一タに無之候。数十年之後を期七、本邦をして東表に卓立せしめ、独立之権利を固持せんと欲ば、今日開化之花をむ;さトぼ=り候より、開化之種を養ぴ候に不然。\/開化之弊は勤王家之弊よりも他日国と人民とに及び候もφ大也ノ何となれば、其害其を行ふ之人に切ならず七て√顕わるものは必数十年之後にあり」レ(6年3月/9日付、\槙村正直宛
書簡、『木戸文書』了巻、1 3頁入=「米欧今日之繁盛も一朝ブタ之事=にも無之√其元因有之√積成七七終に今日を成七候訳に御座候土(5年7月才日、∧杉山孝敏宛書簡、ノ『文書』し4巻、369頁)と
言っでいるように√ローマは≒日にして成らずであって、歴史固体の蓄積した特性にも十分の考慮を払う必要性への自覚が十分にある点が、木戸孝允と「軽薄開化家士どの大きな違いだと言えよう
(註2)。彼は現実主義的目的合理主義者なのである。六「近代西洋化丁は大目標であるが、寸前途維持之目的」もな七に、日本歴史の伝統・慣習・文化、そして日本の現状を頭から軽蔑した「開化家」を木戸孝允は許廿ない。「兎角あ/たまがちに開化を
唱へ、人情の日に軽薄に移り候は見苦敷」(4年8月±3し日付、品川弥二郎宛書簡、犬『文書』4巻、
68頁)=というのである。従って、国民的規模で自覚的に自己変革を遂げずしては、「真の開化」は無理であるというのが、木戸孝允の結論である・。それゆえに、教育に多大の期待を託すことになるのである。     要するに、米欧回覧において、木戸は着実な「西洋化且を謀って行くことの必要性と国民教育の重要性をますます強く認識して帰国しため懲ある。「国家永安之長策は√僅々賢才世出するとも、二般に忠義・仁礼之風起り、確乎不抜之国基不相立候面は、ト千年を期七候=とも国光を揚る事不可知、風を起す基之確定する、只人に在り。其人を千載無尽に期す、真に教育に在る而已レ決而今日之人、米欧諸洲之人と異なる事なし。只、学不学にある而已」(4年i2月17日付、前出杉山宛書簡)
なのである。  (1)\余談ながら、西郷隆盛などは√木戸孝允は軽薄才子の親玉で回ある古見ていたのガが。拙稿
「明治政府と西郷隆盛」/(日本歴史学会編集ヶ『日本歴史』第↓9 0号レト9 89年3月)参照。
 (2)木戸は、ここうも言っている。「元より文明開化之域を望み候とも、\自レら皇国はまた皇国万世
不可換之体も有之、又可改之事にして十年を不待ば不能施之事件も示少、盲戻可行に不可薮候へ芙
ノ兎に角、多事之際、実に可歎は只其人之乏敷を。是又従来乏敷所以有之候事に付ぐ何分にも人材養
成之処尤急務と奉存候」ト(4年2月L5日付、河瀬真孝宛書翰、『木戸文書』し4万巻√189頁)。\
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高知大学学術研究報告 第44巻(1995年)人文科学
4 米欧回覧以後=大久保政治を批判て‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥  4 米欧回覧以後=大久保政治を批判して‥‥‥
(1)憲法制定建言
 留守政府の召喚命令に従って大久保利通と木戸岩倉大使二行より=足先に帰国七た。大久保は、明治6年5月下旬に、木戸は2ヵ月遅れて7月下毎に東京に帰着した。帰国してみると、留守政府(参議は、西郷隆盛板垣退助大隈重信、木戸は外国)は軍事・教育・土地制度・財政等々に相当急進的な改革を施七いまだ企画七でいた。出国するに際して岩倉使
節団は、万留守政府との間に大使一行外道中の政務運営に関する誓約(明治4年=11月7日、・全12款、『岩倉公実記』中巻、949〜5 0頁)を結んでいたノぞのなかの主なる条項に「内地の事務は大使帰国の上、大に改正するの目的なれば、其間可成丈新規の改正を要す可らず上(第6款)というものと、て諸官省長官の欠員なるもめは、別に任ぜず、参議之を分任し、其規模。尚目的を/変更せず」(第8款)とあらだ。しかるに、ノ誓約の第(6款に係わる諸改革のみならず、第8款に係わる最高首脳人事も、6年4月19日に後藤象二郎大木喬任江藤新平の3人が参議に新任していて、誓約は破られていた。大久保も木戸も、この誓約違反には意外であり、強い不快のである。 
 木戸は一年半の洋行中に「軽薄浅学之徒、漫に開を唱ふる」(『日記』5年2月2千日の条、2巻、152頁)状況に激しい危機感を深めて帰国しレた訳だが、し軽薄な開化家がまたまた自己の名誉に引かれ勝手な行動にでたと、つまり、留守中に「開化之弊」が更に増大したと見た。既に外遊中にも木戸は大いに日本の現状を憤慨し、内閣諸公に対して書簡懲、「欧州各国並びに米国等之至于今日に、元因の中々一朝一タに無之、元より我が皇国之二日も無為√時を移之道理は無御座候得共、諸省、諸県、開化家之所為も凡其順序を得不申而は、却って今日:唱之開化の後来之損害を醸し候欺と愚考仕候。尊王と云、開化と云、其木多くは雷同流行に陥り、、然七而開化家之弊、尤可恐と奉存候。如何んどなれば、其害は夫れを行之人に切ならずして、終に其国と人民とに及ぶもの大なり」
(『木戸文書』4巻、3 8 3頁)と云って、厳しく責めつけていためである。 ………
 ところで、木戸は米欧回覧出発前に留守政府筆頭参議西郷隆盛に、丁時勢益々進歩仕候に付き而は禰々立法之確定仕候事肝要」(同前書簡、3 8 3く頁)と問題点を指摘していた。そして木戸は米欧回覧中に各国の憲法を熱心に調査・研究していた。例えば滞米中の木戸が在ロンドンの河北俊弼に「憲法調査」を依頼して出した書簡がある。河北は松陰門下で木戸の後輩、当時ロンドンの日本公使館御用掛だった。「于時又如御間取、日本も開化に日に丹に赴候姿に御座候へども、兎角皆偶然より出候事不少。付而は、此往実に開化之弊もまた可恐七只独不堪煩念事も不少。自分にも根本の処、確乎仕候辺、尤御大事比御座候。且又、総而物に確然たる法則と申ものも無之、然して人になまぎきに馳せ、自主と欺、自由と欺、名に勝手之事而已相謀り、人情は只々軽燥浮薄に而移り、已に今日六七年前に比するときは、宵壌の相違も不少恨。実に弟なども、口何なる因果者に而候欺、始も中も終も−生中如意相成候事、未一度も無之、於今日も只々後米の事而已此成行に而は実に煩思仕候。付而は、総而法則の確定仕候処尤急務歎と愚考仕候。付而は、根本法律(コンズチューション)上等之事よりして、別紙事件等、何卒英国に而被行候辺御詮議被下置候様奉願候」(『木戸文書』4巻、337頁)とあるによっでもあろう。
 帰国早々、木戸は憲法制定問題に乗り出した。そしてぐ帰国した7月に早速丁憲法制定の建言書上(『木戸文書』8巻、118〜129頁)を政府に提出した。しかし、明治6年上半期、留守政府では、朝鮮・台湾に関わる外交問題が重大化しつつあづた。大久保と木戸が帰国した当時(夏)、西郷隆盛を朝鮮に使節として派遣する案件を最重点課題とし、天皇の裁可を仰ぐ直前まで、つまり岩倉大使が帰国してから最終決定する段取りにまで、審議柴進めていた(6月12日、最初め閣議、明治政府と木戸孝允(福地) 8月17日西郷派遣内定)。いわゆる「西郷の朝鮮使節」問題である。大久保も木戸も「西郷の朝鮮使節」には反対だった。それが戦争に結び付ぐというのが彼らの反対理由だったが、両者は岩倉大使が帰国するまでは息を潜めていたのだ。この問の経緯は、関係文献に譲るとして、結局「西郷使節問題」、別名「征韓論」ば留守政府要人と岩倉遣外使節要人との激闘となり、岩倉・大久保・木戸らの巧妙な政治戦術の勝利となり、西郷、板垣ら征韓派参議の下野という大政変になった。此時、木戸は参議なのだから、西郷ら征韓派参議との対決に臨むべきであった。しかし、木戸は病気を理由に、また事実病気だったが、正面に出ない。米欧回覧出発直前まで、「朝鮮使節問題」は木戸の十八番であった。おそらく正面に出て西郷とやり合うのが憚られたのであろう。大久保は大蔵卿ではあるが参議でなかったので、木戸は伊藤博文を連絡係として大久保を後援、参議に昇任させて、勝利を勝ち取ったのである。この征韓論政変のとさくさで、木戸の憲法制定問題は、敢え無くお蔵人りとなって七まったのである。ところで、「憲法制定の建言書」の主張の要点は、二次の通りである。先ず、近代国民国家は、政府権力(公権)と国民(私権)の関係を憲法に因うて規定して、政府の権限、国民の権利と義務を明確にして諸法律によってそれを維持・保証する点にある。そして、文明の国における憲法は、君民同治の憲法で、「人民の協議」で制定される。そして、「今文明の国に在ては君主ありと雖も、我が国の人民、一致協合、其意を致して国務を条列し、其裁判を課して、一局に委託し、之を目して政府と名け、有司(宮人、官吏、官僚)を以て其の局に充てりレ而して、有司たる者は一致協合の民意を承け、重く其身を責めて国務に従事し、非常緩急の際に在りと雖も一致せる民意の許す所に在らざれば、漫りに挙動を試むる事能はず。其厳密なる斯の如きも、人民猶超制を戒め、議上、事毎に験査して有司の随意を抑制す」(12 1〜22頁)/と強調する。しかし、憲法の水準は、文明の度、民度に応じて決まる。しかして、文明の度、民度からして我が国では現在只今直ぢに民意を国政に反映させる議会という機関を開設するのは尚早である。我がしたがって、目下の急務は明治元年の五箇条の誓文に必要条目を追加し、法律を増訂することである。「天皇陛下の英断を以て、民意を迎へ、国務を条例し、其裁判を課し、以て有司の随意を抑制し、一国の公事に供するに至らば、今出こ於ては独裁の憲法と雖も、他日人民の協議起るに至り、同治憲法の根種となり、大いに人民幸福の基となる必せり」(12 8頁)と主張している。憲法制定問題に関しても、木戸孝允は明らかに着実な漸進主義者であった。そして、建言書の要旨は以上の通りだが、恐らく木戸がこのことで真に訴えたいのは、国家の政治綱領を現状に合わせて整備し、有司め専制を抑止する必要が在ると言うことであろう(註1)。
(2)内政整備・民力涵養さて、征韓論政変以後、政府の陣容は大いに改まり、太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視は以前のとおり、参議は木戸孝允大久保利通大木喬任伊藤博文勝安芳寺島宗則となっ犬。そして、この年(明治6)年11月、大久保の構想による内務省が新設され、参議大久保が初代内務卿に就任、近代西洋型産業社会の建設を目的とする殖産興業政策に精力的に取り組むことになる。すでに触れたように、大久保も木戸も共に征韓論に反対し、西郷ら征韓派参議の下野という、大政変に至ったのであるが、両者反対論の要点は、国内末整・国力貧弱の現在、外戦を構える態勢は全く不備である、対欧米外交の観点からしても、国家財政の観点からしても、外征政策は不得策懲ある、したがって、現在只今は「内政整備・国力養成」(に全力を注ぐ可きの時である、というものだった。大久保の場合は、理路整然と征韓派の外交政策を論難し、例えば反対のん論拠に千亜細亜洲中に於て、英は殊に強盛を張り、諸州に跨りて地を占め、国民を移住して、兵を屯し、艦を乏べて卒然不慮の変に備え、虎視耽々、朝に告れ回ば夕に来るの勢あり。然るに今吾国に於て不慮の禍難「 高知大学学術研究報告‥第44巻(1995年)人文科学を生じ、倉庫空乏し人民貧弱に陥り、其負債を償ふこと能はずんば、英国は必ず之を以て口実とし、終に我内政に関するの禍を招き、恐くは其弊吉言ふ可らざるの極に至らん土と言い、インドが英国の属国万になった原因は、英国に財政経済の指導権を掌握されたがためであると事例を示しぐ「我が国に於ては宜く茲に注意し、早く国内の産業を起し、輸出を増加し、富強の道を勤め、以て負債を償還廿心ことを計るべし」(10月の反対意見書、『大久保文書』5巻、59〜6 0頁)と強調していた。 
10月万に征韓論反対を主張してより、木戸は教育整備に加えて、「撫民養力」を併せて強調し始めた。「貧弱と文盲」を退治することから出発せずして、維新の目的である「万国対峙上を目指すことなどは不可能事であるとの深い憂えが、その根底には存在した。米欧回覧で米欧文明をつぶさに観察し、彼我の文明の力量の格差を木戸は厳しすぎるほど印象ずけられて帰国した。彼には、「撫民養力、大に期、他日教育を不怠、真之富強を相企不申而は、決而欧米之強敵と平等之権を保ち候事、万々無覚束、今日之有様。に而は大日本之男児は瞑目難出来」(6年1月21日付、楢崎頼三宛書簡、『木戸文書』5巻、1:08頁)とか、「弾薬も器械も軍艦も、他よ裡求め候而出軍候様之事に而は、国は貧弱/し、民は益苦み、決而後来之良策に無之、然るに向ふを不見之説而已多ノく、難尽筆頭候。今日之貧弱と文盲とにては、余程将来之目的無之而は国家之維持は無覚束と奉存候」
(同前書簡卜とか言うような、悲観的な発言が目立つ。国家富強の基礎構築以外に気を取られている暇は無いとの思いが濃厚である。しかし、現実は複雑で変化に富んでいる。内政充実の為の懸案は多岐に亙って存在する。地租改正の推進、殖産興業政策の展開、学校制度の拡充、不平士族対策等々、重要な案件が目白押七である。さらに、清国、朝鮮との外交も困難な諸要素を多く孕んでいた。
それにしても、参議木戸孝允は、明治7年士月に文部卿を兼任、いよいよ外遊で培った教育振興の抱負を実現に移そうという段取りになったのである。ところが、翌3月には、大久保の巧妙な罠にかかった形で前参議江藤新平、前秋田県島義勇らが佐賀に反乱した。木戸はこの反乱に憤激、自ら九州に出張して鎮圧したいと政府に具申した。しかし、内務卿大久保が適任ということで、大久保が九州に赴いて直ちに鎮定した。しかし、西南地方の不平士族の反政府熱はますます高進して、情勢は不安と緊迫の度を加える一方だった。しかもそこに、以前から懸案となっていた台湾出兵問題が再燃した。そして、木戸と同様に内治優先論を強調して「征韓派」を政府から追放した大久保利通が、明治7年の2月、たちまち先の主張と矛盾撞着する恐れの強い「台湾出兵政策」を指導するに至ったのであるよ大久保が、そうするに至ったには、西南地方の不平士族対策等、しそれなりめ事情や理由が勿論あったが、木戸は大久保の行動を強く批判して、参議兼文部卿を辞任したのである。
 三条、岩倉両大臣も大久保もこれには困惑、伊藤を仲介者として慰留、木戸は全く政府を去ることも出来ず、宮内省出仕の閑職に留まり、一旦郷里山口に弓き篠虻ったのである。明治8年、大久保、伊藤らの熱心な内閣復帰の要請に、立憲政体創設の基礎構築に重点を置いて施政を進めることを条件に参議に復帰した。木戸が主張する万事漸進的に事を運ぼうとの条件に大久保は従い、明治8年4月14日には「漸次立憲政体を設立するの詔」が煥発されと同時に元老院大審院・地方官会議が新設されて、立憲政体設立へ向けての一歩前進があった。参議木戸孝允は、最初の地方官会議に議長を勤めたのである。          
 しかし、この春に木戸と一緒に参議に復帰した板垣退助か、大間も/なく元老院の運営等で、木戸との「漸進的に行く上との約束に反して「急進主義」(立法と行政の分離、内閣参議と省卿の分離)を盛んに主張し、政局は混迷、結局、大久保、木戸らが板垣の主張を退けたので、板垣は10月に政府を去ったのである。木戸も事態が予期に反して動くのに不満で辞意を表明したが、たまたま朝明治政府と木戸孝允(福地) 鮮半島で江華島事件が起こったため(9月下旬)、辞意を旦翻し、身命を賭して難局の処理に当たりたいと請い、朝鮮うの使節内定を見たが、正にその時、歩行困難の下半身麻牽の症状を発し(10月13日)、断念せざるを得なかった.翌年春、黒田清隆井上馨らの尽力で朝鮮問題も一件落着に漕ぎ着けた(明治9年2月26日、白日鮮修好条規の調印)ここで、病気を理由に木戸は再度辞意を表明、澗き届けられて、3月2 8日、参議を免じられ:たが、大久保の強い希望で内閣顧問の地位に留まったのである。
(3)大久保の統治手法への違和感
大久保が、なぜそれほど木戸に気を使い、木戸の立場を立てたのか。それは、第一には大久保が「維新之目的」「維新之宏謨(皇謨)」、つまり、国家の安全と独立を達成し、欧米列強が突出する国際政治世界の中で名誉ある地位を確保するためには、何をなす可きかという大問題に対して、木戸と見解が非常に近いことを良く認識していたためである。何をなす可きかの答えは、「日本の実情を良く考慮しで西洋化を推進する」ということである(註2)。第二にはこめ政府が薩長官僚提携の持続なしには、権力を維持し難いと大久保が強く確信していただためである。しかし、いずれにしても大久保は最も能動的で精力的な政治家であった。大久保には大久保一流の政治手法があった。「大久保において政治とは何よりもまず統治であづだ丁(註3)。当面は官僚政府の主導で「開花之種」を積極的に撒いて行き、将来日本の西洋化の基盤を構築して行くというのが、大久保の手法である。上からの強力指導による西洋化である。尚 大久保は、佐賀め不平士族を挑発して起こした擾乱を鎮圧し、休む間も無く台湾出兵を指導し、ついで北京に乗り込み粘り強い談判で成果を挙げて帰国した。しかし、疲労の色を見せず、大蔵卿大隈重信工部卿伊藤博文ら、優れた実務官僚を縦横に駆使して、地租改正事業、秩禄処分事業、殖産興業政策にそれこそ一意邁進して取り組んだのである。但し、大久保自身は、木戸の非難も相応の理かあることを自覚していたし、自らの施政展開が元より国民に親切で十分なものであるとは思っていなかった。明治11年5月14日、東京紀尾井坂七凶刃に箆れる数時間前、福島県令山吉盛典に往時を述懐して、「抑皇政維新以来、已に十ヵ年の星霜を経ノたりと雖も、昨年に至るまでは兵馬騒擾、不肖利通内務卿の職を辱ふすと雖も、未だーも其務めを尽す能はず。加之、東西奔走、海外派出等にて職務の挙がらざるこは恐縮に不堪と雖も時勢不得已なり。・・今や事漸く平げり。故に、此際勉めて維新の盛意を貫徹せんとす。貫徹せんには三十年を期するの素志なり」(山吉述「済世遺言」、『大久保文書』9巻、168頁)と述べでいることから、それは明らかであろう。それに対して、木戸は長期的な国民教育の成果によって、着実に西洋化の社会基盤を全国均等に拡張して行くという手法であって、明らかに異質である。いずれにせよ、木戸孝允は、米欧回覧帰朝以後、体調不調の時が多くなり、次第に悲観的・神経質になって行った。大久保政権の統治手法は、木戸の忌むべき官僚専制の強硬指導以外の何者でもなかった。しかも米欧回覧以前は明らかに木戸の配下で木戸の引き立てで立身した伊藤博文大隈重信らが、今や大久保の右腕、左腕になって活躍する事態に不快感が募ったのである。木戸は、大久保政治の官僚主導の強引な「開明政略」が社会各層に重大な混乱と乳棒を醸成して国家的危機を誘引するのではないかと深く憂慮した。大久保に従って官僚政府を構成する有力者たちは、その多くが木戸の眼には、目先の功名を目指す所謂「軽薄・軽噪開明家」に外ならない。
「今や邦人の外貌、漸々都風に化し、往々朴野の旧習を変ずと雖も√其心情豊一朝にして文化に明
なる事を得んや。政府能<勉めて生民を教育し、徐るやかに全国の大成を期するに如かず。〉以後、政家方に其際に投じて精意を国家に尽さば、生民の幸福も亦多がるべし。万一、徐かに大成を期す(高知大学学術研究報告 第44巻(1995年)人文科学)る事能はずして、その賢明、独り其身の利達を負んで、民意の向背を察せず、只管功名を企望し、要路の一局に拠りて威権を偏持し、而して万緒国務の多き、毎事之を文明の各国に擬似せんと欲し、犬軽噪之を施行するに至らば、国歩の運厄、以て累卵之危を招くべきなり」(明治6年7月下憲法制定意見書)、『木戸文書』8巻、125頁)との発言は悲痛である。
そして、「軽噪開化家」が自己の功名追求と近複眼的着想から推進する丁開明政策上の悪しき成果は、早くも都市と農村、中央と地方の急速な格差の拡大とて現れで来ていると観察した。明治9年6〜7月、明治天皇は北関東、奥羽地方を巡幸した。内閣顧問木戸孝允は、右大臣岩倉具視らと天皇に供奉して、東北地方の民情等を視察七だ。尚旅先から友人に送った書簡に、木戸は「奥州も千時往来筋は意外に御座候得共、少し辺鄙に至り候と、実に可閥之至、必竟、前途之富強、国家億兆之平安幸福を希望候へば、日木橋近辺之開化ばかりに而は、不面白候」(明治9年7月10日付、吉富簡一宛書簡、『木戸文書』7巻、52頁)と)、犬民情視察の印象を悲観的に訴えている。そして、参議兼内務卿大久保利通が指導する内務省の殖産興業政策を「産業も何卒人民上よ昨今少し進み不仲而は、一向妙は無御座、内務も兎角作業に馳ぜ、真之勧業に而は無之、(中略)如此事に而は、政府は人民之政府と申候処は自然相背き後来之為、煩念仕候且(明治9年8月4日付、井上馨宛書簡、『木戸文書』7巻、70頁)と、民力涵養分先行きを懸念している。そして、て畢竟、政府たるものは、国と人民とが有之し已上出来立候ものに付人民之事は厚く勘弁いとしもらひ度候得共、兎角政府之都合々々と申事には、不愉決千万也ら何分にも諸県下之人民、漸次進歩候而、且々借金なし之所帯之もの多く相成加しと祈念候処、何も欺も中央之権威強過ぎ候而、諸県は益々衰弊、人民は益々無力に相成申候」(明治9年12月6日付、井上馨宛書簡、『木戸文書』7巻、202頁)と言い、現政権の政治手法は慨嘆に堪えないと木戸は言うのである。丁度この時期、特に茨城県三重県で大規模であったが、全国各地で地租改正反対の農民一揆が起こっていた。木戸は、井上に出したこの書簡にざらに書き足して刊ほ之候得ば、実に々々不堪長嘆候。地租改正一条に而も、天下人民十に七八は膏を絞られ、六大借金に相成候もの不少候。不平家之人民を煽動し、むやみに封建を唱へ、攘夷を唱へ、良民之妨害を致し候ものは、実に先鋒いたし候而、打ち潰し度候得共、人民之生活上より歎訴嘆願候は、いかにも哀れ千万、謀反致し候而も加勢致し度心地出申候」(同前書簡、‥202頁)と書いているのである。
木戸の大久保政治への不満と憂慮を整理すれば、次のようになろう。第一は、し征韓論争で内治優先を主張した現政権が、その後間もなく外征政策台湾出兵を強行したこと。第二は、民力・民情に丁寧な配慮をしない官僚主導の強引な社会改革(地租改正事業、秩禄処分事業、冷淡な士族対策等)。第三は、旧薩摩藩鹿児島県の特別扱いである。
木戸は、民情、民力、民度に応じた着実な政策展開がなくては、却って国民は政府に離反し、経済は衰退するに違いなく、従って遠大な丁維新之目的」を達成出来ないと今や確信している。「只管祈念候処は、何卒百年之目的を定め、人々産業・職業比漸次落着候都合ごに立至り候へば、国の開化は随而すすみ中候ノ何分にも一杯機嫌之開化にては、却而年々歳々あとずだり致し可申候上(同前井上宛書簡、2 03頁)。
 明治8年から9年に亙り、立憲議会政治の実施にういてもそうであったが、何と言っでも地租改正と華士族禄制整理の二大事業に関七て社会の実態に即応七た着実で漸進的な政策推進の必要性を最後の力を振り絞って必死になうて主張し続けた。しかし、大久保政権は急進的にこの二大政策を推進したのである。明治9年12月、木戸が政府に提出した寸内政充実・地租軽減に関する建言」(『木戸文書』8ご巻、177〜186頁には、次の発言かある。「一新以後、政府日本前途之目的を一定し、旧来の制度を→変するを以て、兵役の事、独之を華士族に委するは全国後来の利に非ざるを以て、し遂に所謂政府め都合に因て姶て華士族数百年の兵職明治政府と木戸孝允(福地) を解き、之を全国人民に徴集せり。然らば則、華士族の禄の如き、是より無用に座食せしに非ず。今職を解に至りては、無用の座食に似たりと雖も、数百年旧習。の余士族の生計は唯此家禄を仰ぐもめなれば、未だ濾に之を冗費と見倣す可からざるものあ力。世上往々/軽噪の議論ありと雖も、政府宜しく之が為に眩せられず、\数十年の目的を一定し、施政漸次の宜しきを得、二族をしてヤ旦生 活の道を失ひ、国内飢餓の民たらしむ可からざるなり。蓋し、l地租改正なり華士族禄処分なり、従来の慣習と相抱合するの力、極めて密に且強きものなれば固より数十年後の利害得失如何を顧みず、只眼前議論の当否を以て事実に施行す可きものに非ざるなり。し夫れ、租税の事、華士族処分 とは、し内政上に於て最大且重のものなり。而して、二事皆愚見と相反七、之を議するも亦用ひられず」と。そして、上の文章に続けて、「今の政府諸公は、六年以来、内政を以で日本の急務なりと論究せしの一党に非ずや。而して、今日に至るまで、之を事実に施すもの甚だ内政の真意に非ずして、大いに残酷の一辺に流れ入る者の如し。其前の議論と自ら相反対するかと疑怪せざる事能はざるなり」(ト80頁)と、今の政府は漸進主義であると自称するが千其の(人民の)開・、不開を問わず、適不適を論ぜず、直ちに我の是とする所を以て、之(人民卜に加え、而七て又其の成を急にする、是急進に非ずして何ぞ)(185頁)と政府を批判し、民間で=は急進民権論が冪しいが、諸政策展開の実際を見れば、政府は「大急進」であると断言せざるをえないと言うのである(註4)。このように自身の政治構想と政治の現実とが大きく乖離して行くと意識する木戸は、益々悲観的になって行った。萩の乱が鎮定(9年1 1月 5日)された後、木戸派の陸軍中観ら尾小弥太と内務大丞品川弥二郎は参議伊藤博文を引き込み、木戸を参議に復帰させようと謀議した。大久保も木戸の参議復帰に賛成だった。しかし、木戸はこの勧誘を拒絶した。理由は大久保の政治手法が自分のそれとは全く異質であり、水と油が提携しても政府にとって何の益もないのみか、却って害悪だからというのであった。伊藤博文には、次のように参議就任勧誘への辞退を伝えた。 「御内話之一条再応熟考候処、小生進止に付候而は決而損益は無之事と確信いた七中候。元より小生毫厘之怨望無之、敢而其辺は弁解不仕候。実に大久て注・大久保利通のこと)始諸彦皆憂世之念勃々、世人之信用いたし候処に御座候へ共、各夕の考想においては自ら同一ならずるもの有之、近年愚考とも屡相反し、随而施行之順序等も緩急前後胡鮪候事不少、徒らに政府上を煩らはし候而已、少も妙は無御座候。其故、大久と同列所勤も只々表面之都合而已に而、其説之同一ならざるは頓に大久なども得知候事に可有之、実に姑息之極と相考へ中候。付而は、御改革一条も今日之形に而被行候而、少しも不都合は有之間敷、大久なども此処に反省有之候へば、聊小生等も安着、為国家慶賀仕候。付而は、小生などは禰々退却候方こそ当然と相考へ申候」(12月25日付、伊藤宛書簡、『木戸文書』7巻、226頁)。
また、仲介に立った後輩鳥尾小弥太には、「数年以前より、一事として愚説政府諸氏ども芳梅(伊藤博文の号)とも、於政府上相合し満足に被行候と申事絶而無之。其所以は、元来性質違に而、則大勇断と大因循なり。小生は、於行政上は、御勇断は身の毛がよだち申候。数年来之跡を見、明白也。然るに政府に小生を無理に引きず肛込む主意、一向不相分、必一時之御都合なるべし。小生も亦人也。実に身の毛がよだち申候」と非常に感情的に大久保政治への反感を伝えているのである。西南戦争が勃発する半月前のことであった(10年↓月±3日付、高尾小弥太宛書簡、『木戸文書』7巻、2 58頁)。いずれにせよ、木戸の訴えも有ったため、内務卿大久保も、地租改正反対一揆 の多発を憂慮して、明治↓O年正月4日、地租軽減(皿0 0分の3から1 00分の2.5へ)の詔勅が煥発された。このことに、木戸は心底から喜んだのである。( 高知大学学術研究報告 第44巻(1995年)人文科学)
(4)西南戦争勃発 
さて、最後に、明治初年から木戸が目指した「人民平等之政」:という観点からレしても、大久保政治は大きな問題を孕んでいた。朗治6年の征韓論の政変で下野した後、西郷隆盛は郷里鹿児島に引
き寵もった。西郷を支持して帰郷した軍人i官僚を中心に在地の士族を組み込んで西郷一派は私学校を組織して鹿児島県政を牛耳づだ。大久保が√内政優先を主張して舌の根もy乾かぬ内に台湾出兵
に手を染めたのも、一つには鹿児島の西郷ら不平士族対策の色彩が濃厚だった。大久保の出自、大久保と西郷との長く深い関係から言えば、無理からぬ点も有うだ:が、/内務卿大久保の鹿児島県対策
は、他府県人から見れば、明らか=に特別扱いめ優遇措置が多かった。また例えば√士族め禄制整理に関しても、レ旧薩摩藩の禄制は、一般的禄制と違い私有権的性格ありという理由で、禄制整理に手がっけられなかったし、地租改正に関しても、従来の上地制度の複雑性を理由に改正事業は手付かずに置かれたし√徴兵令も鹿児島県には及ばなかったのである。ニ づ この点に木戸は強い不満を終始一貫持づていたし、事毎とに大久保に「平等な対処方」を要求した。なるほど、明治初年以来、長州藩も多くの難問こを抱え、△脱退兵騒擾√士族処遇問題、つい最近
では、前原一誠ら不平士族の武力叛乱(萩の乱:明治9年10月28六日〜ト1月了日)ト等々に対し、木戸は他府県と別け隔て無い厳しい対処を指導してきたのであるから、その不満も大いに尤もだったのである。     木戸は言った。鹿児島の俸禄制度が特異性を持づものであることは認めるが、‥しかし、全国270余の旧藩は、精密に詮議すれば特異性を備えているものが多いめだ。「何も欺も精密に詮議いたし、性質之異り候ものは、格別注意候得ば至極至当之事に御座侯へ共、今日までの経験を以てするときは、薩摩之禄より道理も力も十分有之候種類比而も√多く採用無之、(中略)j如此、強弱に而偏頗之事有之、強弱之県に随ひ、人民之幸不幸大いに異り候ときは、終に天下一般挙而謀反人に至り不申而は不相成形勢に至り可申、為王政、不堪長嘆息候」\(明治9j年i2月7\日付、青木周蔵宛書簡、『木戸文書』7巻、2 0 8頁)と理路整然と非難したのであるノ先に触れた明治9年12月の「内政充実・地租軽減に関する建言書」においても、このことは、「政府の施行、各県の強弱に
 因て異ある可からず。政府とは何ぞや。公平の在る所なり。若し強に逢七自ら弱く、‥弱に逢て自ら強からは、公平の旨、何くにか在る。豊政府と謂よ可けんや」(『木戸文書』8巻、184頁)と十分に強調して主張されていた。 大久保も、木戸のこ皿)様な批判を理解出来なかった訳でぱなく、\良く分かっている事だった。しかし、西郷を擁して鹿児島県を占拠した形の私学校党に手を伸ばす機会を見計らっていたと言うの
が事実であった。鹿児島県政の改革に内務省が着手したのは、ト明治9レ年の夏頃からであるが、この年の暮れから、政府の探索者と私学校党との軋蝶は深まり、竟に翌1/O年2月!5し日に西郷軍の蜂起に至るのである。  この年正月、木戸は明治天皇の大和・京都巡幸に随行していたが、京都で鹿児島の西郷隆盛が軍勢を率いて蜂起したとの報に接したのである。木戸√大久保らの意見により、明治天皇は事変終息まで京都に滞在することになった。木戸孝允は自分が病気勝ち懲あるのも忘れたかのように、自ら
 九州に出陣しで鎮定に尽くした.