1895年ころの朝鮮家屋

 朝鮮家屋の構造は、全国を通じて全く同一である。家屋はすこぶる質素で、安上がりで、酷寒にも見事に耐えるほど暖かである。
 朝鮮家屋は、編み垣を組んだ上に粘土を塗りあげた方形の住居である。屋根は茅葺きか(その時はやはり粘土を塗る)、もしくは瓦葺きである。天井は、大半がこれを欠いている。家屋はすこぶる低くて、時には私が直立していられないものもある。かかる家屋が、一、二の横断壁で二、三の部分に分割されるのである。一、二の部屋は祭祀の間として用いられるが、第三の部屋は更に二分される。その一半には竈が据えられて、煮炊きや屋内での雑役は全てここでなされ、他の一半には家畜を収容する。そこでは、高い所に渡した小丸太の上に牡鶏が数羽止まっていて、彼らが朝ごとに発する声でもって、主人たちへ時が告げられる。この家屋で最も独創的かつ実践的なのは、最小限の燃料消費で屋内を暖房する装置である。
全家屋の縦なりに数列、竃を起点として板石が垂直に並べられる。これらの板石の上には別の板石を水平に敷きつめて、更に粘土で目張りを行なう。上部の表面は平らに均して、家の床として用いる。かくて、床下には教本の管が平行して走ることになり、竃からの煙は床の板石を暖めながら、ひいては部屋をも暖房しつつ、これらの管の中を流れてゆくのである。次いで煙は、木製の管を通って屋外へ出るか、あるいは、逆さに引っ繰り返した底なしの粘土の壷を通じて、家屋の側面から排出される。
寒い冬月の朝鮮を旅する間、夕刻以降十分に暖められた家屋の中では、われわれが寒さを覚えることはついぞなかった。かえって、われわれは一度だけ、過熱気味の床を耐え難く熱いと感ずる機会があった。
床の上で寝ていたわれわれは、まるで竈の上にいるかのように加熱されたのである。
家屋の各部屋には、その前面に一、二カ所、扉が設けてある。時には屏のほかに、覗き窓のような窓があることも珍しくない。扉にも窓にも、木枠の中に細目の格子が填められていて、紙が貼ってある。若干の家屋は二重扉を有し、一つは媒番で取付けられ、今一つの扉は引き戸である。
敷地自体の配置ならびにそこにおける家屋の位置に関しては、全朝鮮を通じて二つの類型が認められる。
即ち、その一つでは、道路の両側に家屋が軒を連ねて立ち並んでいて、各家屋の裏には薄暗くて汚れた、小さな庭が設けられており、今一つの類型では、敷地の中央に家屋があって、それぞれの敷地の周囲は、葦もしくは萱筵でこしらえた(人の身の丈の一倍半もある)丈の高い厚めの編み垣が取り囲んでいる。
後者の類型の敷地は円形であり、かかる敷地配置の下では街路が異様に曲がりくねってくる。これ程まで丈の高い編み垣を建てる目的は、家屋の粘土壁を吹き抜けてくることもある寒風を遮断することにある。
家屋の内部構造は、見事なまでに単純且つ質素である。床には常に、朝鮮語で「ツァリオ」と称する藁茣蓙が敷いてある。壁の一つには棚が、紐で水平に吊り下げてある。棚は衣服やその他の小間物を置いたり、懸けたりするのに用いられる。主人が裕福な場合は、鉄の枠が張られ、前面に透かし模様の鉄の装飾が施された朝鮮式の長持ちが、短い壁面に一列、また時には二列にもわたり積み重ねてある。そこには彼の財産と富が全て収蔵してあるのだ。もし長持ちに入り切らない時は、衣服の一部を壁ぎわに吊り下げて、布地のカーテンで掩ってある。
その独創性が目立つ日用品のうちでは、朝鮮式の小膳に言及すべきである。これはかなり風変わりであるが、また優美ですらあるからだ。小膳は丈が低くて(高さ約一フィート)、二本ずつかすがいで固定された、四本のやや内反した脚が付いている。上の台は円形か、または方形である。小膵は全ての御馳走を小碗に盛り分けて配置する盆として用いられるから、台の縁は必ず幾分高まっている。
 椅子が出される気遣いは全くないので、われわれヨーロッパ人には、堅い床に座るか、うずくまるという痛ましい試練が与えられる。
 若干の当局者の許には、ヨーロッパ製の椅子がヨーロッパ人のために特に用意されている。そのうちの一つは、三本の棒で繋ぎ合わされた二枚の円板で作られていた。かかる床几は極めて便利だったが、成典の町で座らされる羽目に陥ったような、あからさまにその優美さをひけらかして止まない、緑の布で覆われた式典椅子に座るくらいなら、私はむしろ喜んで床に座したであろう。というのも、前に傾いだ背もたれ、ならびに同じく前僻した狭い座部は、椅子を完璧に拷問具へと変身させていたからである。朝鮮人は通常、両脚を大きく紘げてうずくまり、この姿勢のままで数時間座り続けても、一向に疲労も不便も感じないのだ。

家屋内に見出されるその他の品物では、部屋の隅に吊された、底が平らで上部に脹らみを有するダソボール箱に言及すべきである。箱の中央には紐が取付けてあって、この紐で吊り下げてあるのだ。箱の底が開閉可能で、そこには端寛な朝鮮式透かし編み帽子が納めてある。
 この透かし編み帽子は馬の毛ないしは竹ひごで作られるのが普通で、黒く染められるが、服喪に際しては白くも染める。白い帽子を揃える余裕のない者は、黒い帽子の底部に白い紙を貼りつけるだけに留める。
だが、朝鮮人は広縁の帽子以外に、やはり馬の毛を縮んで掃えた、前後部とも狭くなった楕円形帽子を被ることもある。
 裕福な朝鮮人の家には、高さが1、1,5アルシソもある丈の高い銅の燭台がある。これは、上下に動く横なりの管を支える支柱からなり、管の先にあるピンに獣脂製の蝋燭を立てるか、あるいは管の先に銅の環が取付けられて、そこには獣脂と灯芯を入れた小皿を載せる。貧乏人の家における照明は、壁に吊り下げた木棚に載せてある灯明皿、あるいは粟の絞り粕で作った手製の蝋燭に限られる。この蝋燭には、長さ2アルシソの細い棒(直径〇・三イソチ)という形が与えられる。それはかなり明るく燃えるから、その明るさは、恐らく、ステアリン製蝋燭にもひけを取らぬだろう。
 小皿に入れる油は、全く悪臭を出さずに燃える馬の獣脂がもっぱら用いられる。朝鮮人たちはこのような明かりの下で、暖かな屋内に鮨詰めとなって例の古典的な姿勢を取り、冬の夜長を際限のない談笑や会話で過ごし、あの恐るべき悪臭の朝鮮タバコを詰めたキセルを思い思いに燻らせ続けるのである。部屋の真中には、日本のヒバチに相当する大型の粘土壷が置かれ、そこでは灰の中で炭が燻っている。朝鮮人は夜遅くなってから就寝する。家の中からは、会話や言い争う声が夜通し聞こえる時もある。彼らは直に、床の上に何も敷かずに眠り、掛け布団がないために銘々の着物で体を覆う。頭の下には、方形の角材でできた、世界で最も独創的な枕を置く。このような枕が家屋の一隅には沢山転がっており、夜を過ごすために家人たちが帰宅すると、そこから銘々が選ぶのである。稀にしか見られないものの、幅が一チェトヴェルチ〔約一八センチ、四分の一アルシソに相当〕ほどで、粟、碗豆もしくは大豆を詰めた丸い袋からなる、
別の種類の枕もある。この寸胴袋の両端には、醜悪かつ不細工に彩色された円盤が縫い付けてある。バザールでは、このような円盤が大量に売られている。
 十字に組んだ二つのたがの上に長いガーゼの覆いをかぶせただけの朝鮮の提灯も、かなり独創的である。
ガーゼおよびその縁取りの色は、提灯の持ち主の官位と地位ごとに規定されている。この提灯は、竿に付けて運ばれる。
 各世帯には、長さが約二フィートの丸木をくりぬいた小柄があって、様々な用途に使用されている。朝鮮人の熊手は、何本かの曲がった枝の先端をまとめて、柄とともに縛りあげてこしらえる。朝鮮にはいろんなタイプの履物があるが、その外観はいずれも短靴である。これらの靴は木で作ることもある。朝鮮男子はそれぞれに、タバコを詰めた小袋、ナイフを収める鞠、および物を食べる時に使う二本の銅管を腰に吊るしている。朝鮮人の主食は米で、北部朝鮮では粟と麺類であるが、副食には発酵させた蕪や人参、細く切った豚肉、赤唐辛子を添えた魚卵、唐辛子をまぶした蟹、魚、そして卵などを摂る。
 地方当局者の許における正餐ではどこでも、塩を加えずに煮た鳥肉を皿に丸ごと盛った料理、熱いバンシンならびに砂糖抜きのまずい茶が必ず出される。これらの料理は全てが銅や陶製の小碗に盛って小膳に並べ、各自の許に膳ごと運ばれる。食物は銅箸や銅匙で食べる。朝鮮ではお茶が、わが国や中国、あるいは日本のようには普及していない。上に列挙した料理が出るのは、裕福な家においてである。貧しい民衆は殆ど専ら麺、米ならびに栗を、しかもまことに小量食べる。

感想

以上は1895年、1896年の朝鮮を視察したアリフタン中佐の朝鮮の家に関するものです。写真の見た目だけでは、その家の良さは理解できんですな!

釜山の開港は1876年、次いで元山が1880年、そして済物浦は1883年に開港されます。1885年のアムール州総督官房付公爵ダデシュカリアニの報告書では朝鮮の現状と将来について次のようなことを報告書で述べています。

当面の輸入品は、更紗の生地、羊毛毛布、各種の鉄製品、弾丸、ガラス製品および旋盤製品、時計その他の小間物類である。
 これらの商品の見返りとして朝鮮から輸出されるのは砂金、銀、去勢牛の皮革と各種毛皮、肥料用の動物骨(日本向け)、生糸、タバコ、昆布、さまざまな魚類、真珠、木材、人参ならびにその他の薬草類である。
 朝鮮税関を通じて輸入される商品には英国の税率が適用され、輸出品には五パーセントの関税が課せられる。
 三開港における1884年度の朝鮮の総取引高は、4,724,641ドルであった。このうちで輸入額が2,384,183ドル、輸出額は2,340,459ドルである。これに先立つ数年間における輸出入の差額はもっと大きかった。当初、即ち、1881年には差額が50万ドルにも達したが、毎年減少を続けて、引用した数字に見えるように、昨年は45,724ドルにまで縮小した。輸出額が単に輸入額に見合うだけでなく、それを著しく上回るような時も遠からずである。文明は日本と同じく朝鮮においても、それを完全に受け入れる土壌を見出出している。過去四、五年間ヨーロッパ人ならびにアメリカ人と交流を続けた結果、朝鮮人はこれらの国民から既に多くのものを学び、さまざまな模範施設を自ら創設している。これらの施設では朝鮮の若者が、経験を積んだ外国人の指導下にさまざまな分野の農業、工業の作業を学び、機械生産などにも習熟しつつある。これら全ての新事業に対して、朝鮮政府は税関収入と地租の一部を特別資金として支出している。朝鮮人の情熱的気質ならびに進取の気性をもってするなら、これら有益な企図の全てに輝かしい成功を収めることが可能で、地方の生産力およびその経済生活の向上を目指す自らの出費の全てを、政府は何倍にも割増して回収するであろう。朝鮮人労働者がいずれかの官吏のためでなく自分自身の利益のために働く港湾ならびに海外では、彼は勤勉と精励の模範である。彼は全ての国民にも増して、特に中国人と比べても優秀とされている。祖国における彼の生活条件を変え給え、そうすれば彼は疲れを知らぬ勤労者となるであろう。朝鮮の過去は、農業の成功のためにもまた工場制産業のためにも、あらゆる与件が揃っていることを立証する。かつては朝鮮人が、今日の日本国民の誇りである諸技術(陶器、綿製品ならびに金属製晶の製造)について日本人に教えることのできた時代もあった。だが、この至福の時代の朝鮮人は、今のように生産を束縛せぬばかりか、それを全面的に奨励もする諸条件ならびに国内組織の下で暮らしていた。今日では民衆も朝鮮政府も、彼らの国家体制が立脚する反動的諸原理の完膚なきまでの破産を明瞭に意識している。そこで民衆も政府も一致協力して、行政の領域のみならず社会生活においても根本的な改革を断行することに決した。朝鮮政府はヨーロッパ人の優越性、彼らの知識と経験を認めて、これらの文明化した人々を招き、高給と有利な条件で雇用しているが、民衆も彼らを喜んで迎え、自らの文明開化の先導者として敬意を払ってもいる。・・・・

マッケンジーの記載

「最初の数年間、朝鮮に入国した外国人の大多数が見たのは、開港地である釜山、済物浦及び首都だけに局限されていた。これらの場所で彼らは朝鮮の最も悪い面を見た。特にソウルには貴族や宮廷に寄生する食客の大群がおり、彼らは怠惰で不潔であり、農村地方では見られないような下劣さを感じさせるのであった。しかしソウルそのものは幻想的な絵のようであった。王と王妃とは、山影を背にした大きな宮殿で統治を行なっていた。低い平屋建ての建物が広びろとつづき、その周囲は広大な中庭と高い城壁に囲まれており、従者たちが充満していた。数多くの石柱を支柱にして、美しい湖水の中に浮かぶように立っている、かの有名な亭閣で、王は放生−朝鮮のゲイシャーと楽しく遊ぶことができた。少なくとも四千人に達する侍臣、官吏、在官、魔術師(巫督)、占い師、そして各種の食客たちがいた。魔術師たち−盲人のギルドー、国内で一つの勢力を形成していた。彼らは強固な党派を形成し、人びとは、彼らが見えない両眼で虚空をにらみ、歩く道をさぐりあてるよう長い杖で路面をたたきながら対をなして通るのを、恐怖の目で眺めるのであった。
 ソウル、それはこの上もなくよい位置に配置されており、高い丘に囲まれ、健康的なほどよい気候に恵まれている都市であり、宗教的拝礼の行なわれる寺院の一つもない、東洋諸国の首都中ひときわ注目に値する都市である」