朝鮮紀行

朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫
首都の第一印象(李氏朝鮮時代)

[都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た個体および液体の汚物を受ける穴か溝で狭められられている。....」


下記はロシアの商人ヂェロトケヴィチの1885年12月6日から1886年2月29日の旅日誌から首都に関する表記です。

 ソウルは約三〇万の人口を擁し、深い盆地に立地している。町自体は漢江から五房里のところにあり、総延長がほとんど八露里に及ぶ石壁でぐるりと取り巻かれている。壁は高さが四サージュン、厚さ二サージェンに達する箇所もあり、六カ所で木造の門を構える。・・町の門は毎夕、日没とともに鐘の音と銃声が響く中を閉じられる。門が閉められた後は、政府の許可を有する者を除いて、もはや何人といえども町を歩く権利を有さない。朝は日の出とともに、閉じられた時と同じ儀式を伴って門が開かれる。・・・町の中ほどを、北西から南東へ貫いて小川〔清渓川〕が流れる。この川の水は、唯一肌着の洗濯だけに利用される。飲用ならびに炊事用の水は、小川の畔にあまた掘られた井戸から汲まれる。町の大路を繋ぐ形で川に架かる幾つかの堅牢な石橋は、どうやらかなり古い時代に建てられたようだ。裕福でない住民の家屋は大抵が粘土壁で、外壁はそれぞれ独立に縄で角材に固定されている石塊で覆われている。家星は内壁も外壁も粘土で仕上げてある。敷地は遠に石塀か滞木の垣根で囲まれている。家々の窓は内庭に面していて、街路に画するのはただ煙突と煙出しの孔だけである。かまどの焚き口は屋内にあり、ここには・コミや汚水の集培所も設けられる。屋根は茅葺きと瓦葺きの双方がある。政府の建物および富裕な商人の館は石造もしくは木造建築で、瓦葺きの屋根には日本風の各種装飾が施される。また私の見るところ、一般に星根や門は装飾が凝らされている。屋敷は、高さ一サージェンほどの石塀で囲まれる。各部屋の内壁には、たいそう上質の紙もしくは自家製壁紙が貼られる。竈の焚き口は屋外にあって、屋敷全体に張り廻らされた煙道は、同時に床でもまた暖炉でもある。煙道には丈夫な油紙が上張りされている。格子窓には薄手の白い紙が張られ、室内は沢山の仕切りで区分けされる。・・・
 ソウルには英国、ドイツ、米国、日本、中国の代表が駐在する。その外に若干名の外国人が朝鮮人のもとで働いている。即ち、米人医師二名、税関勤務のドイツ人三名とロシア人一名、英語教師の米人一名である。学校は半年前にようやく開設された。少年たちは英語で読み書きを学んでいる。・・・

感想

同じものでも男性である商人は、やはり女性の表面的で自己感傷的な見方とは一味も違うものが見えるものです。

朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫
首都の第一印象(李氏朝鮮時代)

[都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た個体および液体の汚物を受ける穴か溝で狭められられている。....」


下記はロシアの商人ヂェロトケヴィチの1885年12月6日から1886年2月29日の旅日誌から首都に関する表記です。

 ソウルは約三〇万の人口を擁し、深い盆地に立地している。町自体は漢江から五房里のところにあり、総延長がほとんど八露里に及ぶ石壁でぐるりと取り巻かれている。壁は高さが四サージュン、厚さ二サージェンに達する箇所もあり、六カ所で木造の門を構える。・・町の門は毎夕、日没とともに鐘の音と銃声が響く中を閉じられる。門が閉められた後は、政府の許可を有する者を除いて、もはや何人といえども町を歩く権利を有さない。朝は日の出とともに、閉じられた時と同じ儀式を伴って門が開かれる。・・・町の中ほどを、北西から南東へ貫いて小川〔清渓川〕が流れる。この川の水は、唯一肌着の洗濯だけに利用される。飲用ならびに炊事用の水は、小川の畔にあまた掘られた井戸から汲まれる。町の大路を繋ぐ形で川に架かる幾つかの堅牢な石橋は、どうやらかなり古い時代に建てられたようだ。裕福でない住民の家屋は大抵が粘土壁で、外壁はそれぞれ独立に縄で角材に固定されている石塊で覆われている。家星は内壁も外壁も粘土で仕上げてある。敷地は遠に石塀か滞木の垣根で囲まれている。家々の窓は内庭に面していて、街路に画するのはただ煙突と煙出しの孔だけである。かまどの焚き口は屋内にあり、ここには・コミや汚水の集培所も設けられる。屋根は茅葺きと瓦葺きの双方がある。政府の建物および富裕な商人の館は石造もしくは木造建築で、瓦葺きの屋根には日本風の各種装飾が施される。また私の見るところ、一般に星根や門は装飾が凝らされている。屋敷は、高さ一サージェンほどの石塀で囲まれる。各部屋の内壁には、たいそう上質の紙もしくは自家製壁紙が貼られる。竈の焚き口は屋外にあって、屋敷全体に張り廻らされた煙道は、同時に床でもまた暖炉でもある。煙道には丈夫な油紙が上張りされている。格子窓には薄手の白い紙が張られ、室内は沢山の仕切りで区分けされる。・・・
 ソウルには英国、ドイツ、米国、日本、中国の代表が駐在する。その外に若干名の外国人が朝鮮人のもとで働いている。即ち、米人医師二名、税関勤務のドイツ人三名とロシア人一名、英語教師の米人一名である。学校は半年前にようやく開設された。少年たちは英語で読み書きを学んでいる。・・・

感想

同じものでも男性である商人は、やはり女性の表面的で自己感傷的な見方とは一味も違うものが見えるものです。

経営の単純さ故に役畜の数も限られている。ポニーと牡牛と牝牛を同時に飼っている農家は稀である。これらの内の一頭だけで、一人の朝鮮人にとって農作業と薪の調達、また一年分の干魚と昆布を市場から運ぶのには十分である。家にはさらに、やはり限られた数ではあるが、犬や隊や牝鶏もいる。犬は豚や牝鶏と同様に、祭日の食卓を賑わすために飼われる。犬の肉は朝鮮人の好物である。羊と山羊は、何らかの宗教的見解を慮って法律が飼育を禁じているので、国内には影も形も見当らない。朝鮮農民の食事は煮米、野菜汁、干魚よりなり、これら全てを毎回、米で作った相当量のウォトカで流し込む。食事は日に三回、即ち、早朝、正午、そして夕方の就寝前である。注目されるのは、朝鮮人が牛の乳を搾ることを全くせず、かくて乳製品を利用しない事実である。朝食後に農作業が始まるが、どんな仕事でも正午には終わって、再開は決まって翌朝である。午餐を済ませると、男たちは昼寝をするか、あるいは街頭へ繰り出して、長いキセルをくあえながら互いの間で、あるいは通行人と話を交わしつつ夕食まで時間を潰す。このような生活を送る朝鮮村落が常に生気にあふれ、祭りのような観を呈するのは言うまでもない。・・・

上記は1885年アムール州総督官房付 公爵ダデシュカリアニの報告書の一部です。