昭和天皇の戦争責任

アメリカはソ連との対立の高まりのなかで自国の国益が優先されました。対日占領政策の円滑で効率的な遂行という観点から天皇制の意識的な利用が図られ、昭和天皇の戦争責任が免責されたという事実は、そのことをよく示していると思う。

東京裁判でいえば、本来ならば第二次、第三次の継続裁判が予定されていたにもかかわらず、冷戦への移行のなかでアメリカ政府が戦犯追及に熱意を失い、継続裁判自体が放棄されて多数の戦犯容疑者が次々に釈放された。

1951年に調印されたサンフランシスコ講和条約は戦争責任の問題への直接的言及がなく、第11条で東京裁判の判決を受諾することだけが記されていること、アメリカを中心とした主要交戦国が賠償請求権を放棄したこと、再軍備の禁止、制限条項や民主化を義務づける条項などがその具体的内容だが、そのような講和条約になった最大の原因は、アメリカ対ソ戦略上の政治的配慮が何にもまして優先されたからでしょう。

侵略戦争の最大の犠牲者だったアジア諸国は二の次だった。それは日本の戦後処理が行われていたときは、アジア諸国にとっては、脱植民地化の過程と重なっていたからです。

それにアジア諸国がその国際社会において占める比重の低さもあったのです。また、その後、アジア諸国の民衆の日本に対する非難を日本からの経済援助を優先させる形で開発独裁型の軍事政権が押さえ込んでいたから、民衆は対日本の戦後処理のあり方に充分な影響力を及ぼすことができなかったのです。

日本は戦争責任問題を事実上棚上げしたうえで、巨額な賠償支払いの経済的負担に悩ませることなく、経済成長に専念することが可能になったのである。