蜘蛛の糸

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」はご存知のように「お釈迦様があるとき蓮の池を見たら、地獄で苦しんでいる人々のなかにかつて蜘蛛を助けたことのある大泥棒カンダンがいたので、彼のもとに蜘蛛の糸を垂らします。カンダンはその糸をたどって地獄からはい上がろうとするのですが、ふと下を見ると次から次へとみんなが同じ蜘蛛の糸にぶら下がってくる。
「この糸は俺の糸だ。みんなつかまるな」とカンダルが言ったとたんにその糸は切れて、彼はまた地獄に落ちてしまう」という話です。

この話で三つの事を考えることができると思います。

第一番 ひとりが美味しいこと見つけと、それに次から次と同じ事をするということ。
第二番 みんな同じ事をしてもその一本の糸ぶらさがっているものには自然とその序列ができるということ。
第三番 その糸をたぐって上っていくためには、下のものを踏みつけていくか、あるいは弱いもの踏みつけ落としていくしかない、と考えること

上記のように蜘蛛の糸に芥川が考えたかは解かりませんが私なりに都合よく考えれば
人の世においての、逃れを得ない宿命というか、人の無常さが見えてきます。

悪いことと知っても、みんながワイロを使って便宜を取り計らってもらう。受ける方もみんなが同じようにやっているのに、なぜ俺だけが悪いのかと凄む人もでてくる。

国をだます人、会社をだます人、老人をだます人、他人をだます人、家族をだます人、奥さんをだます人などたくさんの人がいる。

その下で、お金を騙されたり、心が傷ついたりした多くの者が現実が存在するのに、それに関った人々ほとんどは、悲劇が起ったかということは、忘れているか、最初から考えていないか、なんとも思っていない。ましてや、その自慢話をしているかもしれない。
そして、傷ついたものは、きれいに忘れさられ、新しく作られた記憶により、その行為が賛美されたり、自慢したりすることをなんとも思っていない。

そこで思う。

なぜこのようなことが起こるのか、これらが人の宿命観で考えれば、世の中、進歩がうまれない。これに「徳」意識を持てと太古から言われているが、実践的思考ではない。
やはりすべてのことにおいて責任体系の日本を作ることが一番だと思っている。
日本の構造は戦後から今日まで無責任の体質が根強く信仰されている。これは、客観的な構造として無責任の体系であるだけでなく、そこに関る人々の主体的にも責任をとる気がない。つまり、客観、主体の両方の側面で無責任がまかりとおるわけです。
まぁ・・この辺に、これからの日本の課題があるといえますね。

「責任体系の日本を作ること」です。