文芸春秋

大正末期に治安維持法という恐るべき法律ができた。この法律は、昭和3年になると国家の変革を目的として結社を組織したり、それを支援したり、そのために金や物品を出すことを約束したりしたような者は、死刑その他の重刑に処せられることになっていたのであるが、国家の変革ということの意味がハッキリしないために、その解釈は滅茶苦茶に広げられて、実にひどいことになった。

やがて国民を戦争に追いこむファッショ化が進むにつれて、当時の忠君愛国、国体明徴、大政翼賛会、一億総決起などというかけ声に少しでも反するような言動をうければ、アカ呼ばわりされたり非国民扱いをされたりして、この法律にひっかけられることになったのある。

体制ついて論評をするとか、社会情勢について真実を語るとか、海外の実態を伝えるとかいったようなことをした者はもちろん、政府や軍部のチョウチン持ちをしない演劇・映画・文学・新聞の関係者はみんなやられた、やがて天皇以外の神を信奉するというのでキリスト教大本教天理教などの信者までがひっぱられた。

このような治安維持法に加えて、さらに戦争体勢をととのえるために、軍の秩序を乱したり財界をまどわしたりするような文書図画を発行禁止する不穏文書臨時取締法が出来、いよいよ戦争に突入すると、一切の表現や結社の自由を封じるための言論、出版、集会、結社などたいして、随時取締法が制定された。しかも、他方では戦争目的のためにあらゆる物的および人物の資源を統制運用することができるとした国家総動員法という憲法にも匹敵する協力な法律があった。そしてこれらの法律の実施に当たっては、ガッチリした権力機構が網の目のように、こまかく組織されていた。たとえば、特別高等警察と呼ばれていた思想系情報係というべき治安警察の制度と、軍隊の内部だけではなく広く軍の機密の保護と反戦運動の取締に当っていた憲兵の制度とがあった。そして誰でも特高憲兵ににらまれたが最後、どんないいがかりをつけてひっぱられるかわからないので、大きな声では話もできないことになったのである。しかも、文部省には思想善導という看板を掲げた思想系があって、教師や学徒の言動を監視するようなことも行なわれた。

このような恐怖政治のもとでは、「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿にならって、ただ黙々と上からの命令された号令をかけるままに動いて生きるほかはなかったのである。

このようにして、軍部を中心とする支配権力者は、モノを言えぬ国民を道ずれにつっ走って、戦争に突入したのである。

このような世で正しいことや批判的なことを発言しても、ひどい目にあうだけのことだから、黙して語らない識者も少なくなかったが、文壇として戦争賛歌に最大に貢献した雑誌は「文芸春秋」だった。・・・