エゴと伝統

戦前のように、人の無知に乗じて、その人格や価値判断まで奪い取り、その構成員のひとりとしてエゴ的存在として利用することは、やはり人の尊厳を奪う行為だとおもうのです。

>私も法に関して無知です。でも疑問を持つことが出来てると思います。やはり感覚的に法を守ることが不快に感じる場面があるからだと思うのです。伝統(宗教)にのめり込むのは、本人にとって快感を味わっていられるのではないのでしょうか。本人にとって尊厳を奪われることが不快にならない限り、まわりの価値観の押し付けになると思います。
価値観の押し付けの正当性に多数による力の支配があると思うので、これを疑うことができるなら、また違う価値観がうまれるのではないのでしょうか。

法は社会秩序を守るため、国民が従わなければならないと定められた、その国のきまりで、国会の議決など一定の手続きによって制定されますが、かのドイツもその手続きを踏んで独裁の道を歩み多くの惨禍を人類にもたらしました。だから、私自身にとっては、生きる意味からすれば法は絶対的ではありません。だからといって無視するものではありませんが、あくまで、自分のためであります。
人の尊厳とは、その人の人格は生前・死後を問わず常にたっとばるべきものであり、いかなる場合でも凌辱が加えられてはならぬという、最高かつ最低限の倫理で、法よりも上位に位置するものではないかと考えます。
だが、なにごとにもそれを正しいと信じた時点で、魔界の尖兵にならないとも限らないから、私は、せめて人を悲しめないように考え行動することを心情としています。

>わたくしごとですみませんが、お金を必要以上に儲けたいと思う自分に対してものすごく不快に感じます。(ベニさのことではないですよ)罪悪感といった感じでしょうか。お金の心配さえなければ、もっと快適にすごせるのではないか。だったらお金を手放すことで快適に過ごせるならばと考えるわけです。そういう社会が提示されれば心動いてしまうかもしれません。

私はこの世の中、絶対という価値観は存在しないのではないかと考えています。そこで、なにを基準に自分の日々の生活や行動を決めるかといいますと、やはり自分自身で「かのように」と信じて行くしかないのではないでしょうか。

>その人の人格を尊ぶか蔑むかはその人の行動をどう評価するかによってではないのでしょうか。道徳的に行動する人なら尊ばれますし、反道徳的であれば蔑まれる。原因はその人の行動ではないのでしょうか。もちろんそれを評価する側の価値観が問題になってくるので、同じ行動をしても社会によって尊ばれる場合と蔑まれる場合がありますけど。反社会的な行動をとる人の人格をその社会は尊ぶ必要なないと思います。だけど本人が自分の人格を尊んでいることを、社会は非難できませんね。

私から見れば、私以外のものはみんな反道徳の人だらけです。いやになっちゃいますよ。

>人に愛されることを避けなければならないかもしれませんよ^^。

自分自身のために、そうしようと思うだけで、あくまで自己中心的考えから推考の結果です。

>こんな私ですが信じているもがあります。自分の感覚です。「快」、「不快」、この感覚を大切にしています。とりあえずこれを感知出来なくなるような障害をつくらないように生活して、不快を取り除くことでしょうか。

周りは「不快」なものだらけですが、考えようによってはいかようにもなると思います。つまり、「快」、「不快」は自分の心にある問題だからです。

>私は、あまり気にならない方なんです。「ああ、そういう人なんだぁ」というレッテルは張りますけど。反道徳になる人にもそれなりの理由があると思うのです。もちろん理不尽と感じることがあるかも知れない。でも理不尽と感じることは、こちらの勉強不足だと思うのです。


特に日本人は道徳を意識するような頭の理解ではなく、「共感」でわかってしまう島国の風土的条件により先天性の特徴があると思うのです。

日本人は道徳という言葉をよく使うが、実際は道徳とは無縁なところで、物事を考え行動する体質を具えている。もちろん一般的にですが。

たとえば、自己の属する集団が悪をおこなっているとき、その悪をまもるためにうそをつく、真実を語れば集団を裏切ることが道徳に反することになり、「恥」を感じるときです。
そのなかに自己を埋没させて集団のそれぞれのエゴのなかに道徳を見出し、その集団と同一化して行くことによって生活の安定性を求めていく生き方が日本人の一般的特性となっているのでしょう。

これは族長社会の名残かも知れませんね。

万人が納得する論拠をもって説得するのではなく、強い実力をちらつかせながら半ば脅迫的に自分の方の一方的主張を通そうとする考えですね。

これらは日本の歴史が明確に証明しているところだと思うのです。

>例えば、芸術家。身近な人をどれだけ悲しませるか。およそ世間一般の幸せとは別の世界で生きていると思います。

私も考えてみれば、自分の世界のなかで生きているような気がする。

>そうですね、効率的に一つのことだけに集中できて、そこに自分の価値を求める。族長社会が悪いとは思わないのですが、問題は、その一つのことがなくなった時、対処(自分の責任に)できるかどうかですね。

組織の中の道徳でそれぞれが自己満足にひたっているから、うそをお互い容認し合う世界になり、自分を他者の位置において客観視できない集団が出来上がります。空虚な自己だけが満たされた閉じた世界では他からなにかを摂取しようという清新な精神のもつ謙虚さが皆無になるのでしょうね。


>どうでしょうか^^。言葉による暴力が許されて腕力による暴力が社会で認められない理由がまだ自分のものにできないのです。脳障害などで言葉をしゃべれない人もいるわけだし、なんかのきっかけで私も同じように回路のつながらない状態になる時があるかも知れない。

暴力もいろいろあるが、言うことをきかない子供を「ぽかん」とする行為や、泥棒に入られ、柔道で投げつける行為や、暴力組織を壊滅するために拳銃や警棒で威嚇する行為やなんかのきっかけで回路のつながらない状態人に「ぽかん」とする行為など、厳密にいえば暴力だが、暴力とは私は考えていません。


>うん、他人の為に生きるのも自分の為でいいとおもいます。

人は他人の為に生きるのではないと思っています

>「日本人は道徳を意識するような頭の理解ではなく」という話から、どうして「実際は道徳とは無縁なところで、物事を考え行動する体質を具えている」という帰結に至るのでしょうか?

道徳とは、社会生活の秩序を保つために、一人ひとりが守るべき、行為の規準ですが、人にも道徳を守るべきことを説く以上自分でもその道徳をよく守り、その基準に則り行動するのが当然だと思うのです。
ところが、実際はどうかと考えれば、ということです。
企業(組織)の例をとって述べてみます。
企業内にも企業の道徳と言える規範があり、企業内部でその規範に反するものは是任されません。
そこで問題になるのが、それが一歩外に向けて、企業内部の利益と保全を目的にするために、企業の行動が社会の道徳と接触した場合、社会の立場での自己の責任、さらに人間としての自己責任は存在するのではないかと考えます。
だが自分の今の生活の保全という、自己本位のいわば自己の利益を目的とした計算が無為意識にはたらいて、自分自身について反省し省察するという意識がないものが多いと思われる。しかし、これらの意識はある程度の知的志向の推移の結果であり、これをすべてに求めることはどだい無理なはなしである。そこで、思うのであるが、その企業を指導するものの考えが重要視されるところであるが、どっこいその指導者こそ、より一層自分の立場に固執しやすいものです。
これらは、どうして平気で矛盾なく日本人は受け入れられるのだろうと思うのです。
それは、日本人は道徳を意識するような頭の理解ではなく、「共感」でわかってしまう島国の風土的条件により先天性の特徴があるところからくるのではないかと考えています。つまり、「共感」でわかったことにすれば、無意識に生活の安定や、自己責任や己に忠実である問題を飛び越えて組織や人と同一化し、段階的な思考から飛躍した結論を選ぶのではないかということです。

やると思えばどこまでやるさ、
これが男の意気地じゃないか、
意地がすたればこの世は闇よ、なまじとめるな夜の雨よ。


>しかし、集団秩序を形成しようとするには一定限度において没個性的になってしまうのは当然のことなのではないでしょうか。
個人のエゴが対立しあう社会より、パブリックを尊重する社会の方が安定した生活が営めます。

パブリックを尊重する社会はすばらしことだと思いますが、社会は個々のエゴが対立しあいながら作られます。その個々の延長線上に集団(政党・会社・宗教)ができあがります。私はそのほとんどは個々の大義(甘い言葉)をもって、自己のエゴ(私腹)や自分たちのエゴ(利権)のために利用しようとする人が多いのが現実だと思います。組織の本来の目的を蔑ろにして、表面上はいかも正当性のある言葉で覆い、自己のエゴのために行動するのです。たとえば、人権問題、他国の経済援助、防衛などの大義を声高々に捲くし立て、いかにも正当性があるように行動したり、主張したりします。
私の歴史的、過去的経験では、声高々に捲くし立てる人間は理知的欠陥があり、言葉の信用度は30%ぐらいだと思ったほうが間違いないですよ。なぜなら、理知的状態のある人間はかん高い声を上げないし、一種の興奮状態にある人間はその間は理性が失われ、他のことが頭になく必ず間違った判断になる。人を非難するときも、暴力を使うときも、また同じことですね。


>私は、万人が納得した政治体制を見たことがありません。
国家の存在自体が「半ば脅迫的」に「強い実力をちらつかせ」るものでしょう。
それは、現代の民主主義国家でも同じことなのでは?

すべてその通りです。だが、それらを自分との関わりの中で、どのように考え、どのように行動するか、それらをいかに自分のためになるかということですね。